【小説】神社の娘(第36話 身一つで立つ場所)
葵は息抜きのために休憩スペースへコーヒーを買いに来ていた。
自販機の前でボタンを押そうとしたところ、背後から「アオちゃん、ここ最近、剣術の稽古ばっかりみたいね。躰道来ないの?」そう話しかけられた振り向くと、樹が立っていた。隣にはちんまりと二宮蓮が立っている。
「あー、そろそろ行くかな」葵は少し戸惑いながら答えた。
彼ら能力者たちは、それぞれの能力に応じて剣術と躰道、どちらかで体を鍛えている。葵たち日本刀を武器とする破壊能力者たちは基本的には剣術を学び、樹たち支援系の能力者は躰道で鍛える。ただ樹のような静止能力者は棒を扱うため、剣術稽古の日に棒術の鍛練もしている。向日葵は武器が苦手であることはすでに説明した。
刀組も、武器を失った時に備えて武道をたしなむ者もいる。葵の場合は向日葵がいるからという理由で続けていた。
社会人になってからは、剣術は仕事に必須なので鍛練を続けているが、躰道は不定期になっていた。新卒当時はヒマな部署だったが、個人的に意外と野生動物の仕事関連で覚えることが多かったり、資格取得など、何かと忙しかった。自分の時間を確保するために躰道は数か月に1、2回程度に減っていた。最後に稽古へ行ったのは昨年の秋ごろで、今年はまだ参加していない。時間が空きすぎて、行きにくくもなっていた。
「そーよ、鍛えなきゃ。いっぱい鍛えなきゃ!僕も今週から毎週行くって決めたの。剣の方もね。春休みだし!大人だけど!最近ほら、いろいろ忙しくてしばらくお休みしてたから」
樹は大岩のような上腕とともに、葵の上半身を手でばんばん叩きながら「しっかりしてるけど、まだまだよ。一緒に鍛えよう!僕ぐらいの筋肉つけよう!」
「そ、それは無理だけど、鍛えはする」ひきつった笑みで葵は答える。
「そうだよ三宮の。最近バケモノ強くなってきたし、一緒に鍛えようじゃないか」蓮は自販機で黒い炭酸飲料のボタンを押す。がしゃんと飲み物が落ちてきた。「君さあ、剣術は強いけど、素手はそうでもないじゃん」しゃがんで飲み物を取り出す。「久しぶりに君がひまちゃんにぼっこぼこにされるの」ペットボトルの蓋を開けた。
ぷしゅっと清涼感が広がる音の後に、蓮は悪意に満ちた声で言った。
「すっごく見たいな」
レディース服のSサイズがぴったりなほど、男性にしては華奢で小柄な蓮。顔は「人間を憎んでいる野良猫」のようだと評され、お世辞にもカッコいいや可愛いとは言えないタイプだ。清潔感はあるので一見すると丁寧な人に見えるのだが、言葉にトゲがあり、嫌味が多い。仕事をそつなくこなすように見え、実は効率よくずるをしている。
背は高い、芸能人張りの二枚目、スタイルがいいと、自分とは見た目が正反対の葵が子供のから鼻持ちならない蓮は、大人になっても彼に突っかかる。そしてなぜか彼の名前を呼ばない。
「やだレンちん!アオちんもひまちに負けず劣らずけっこー強いでしょ!ぼこじゃないわよ、コツンよ!」
言葉通り、樹は拳でコツンと葵の肩を叩く。突然何かを閃いたように手を叩き、「躰道、今日じゃない。ねえ今日の夜さあ、一緒にケイコ、しよ?」と顔をぐぐっと葵に寄せた。
樹の無邪気すぎる瞳と体格の圧に負け、葵は「わ、わかった」稽古に参加することになった。もちろん、樹も蓮も一緒だ。
席に戻った樹は、早速、向日葵にも「今日アオちゃん来るわよ~!僕もね!」と報告した。向日葵はスマホを取りだし〈舎弟のきっぺい〉を検索した。
◇◇◇◇◇
橘平は午前中、陸上部の春休み練習に参加していた。部活を終えてジャージに着替えた橘平は、更衣室でスマホの電源を付けた。すると、向日葵から〈今日の稽古、葵くるよ~!!〉というメッセージが入った。
これを見てすぐに、橘平は桜にメッセージを送った。
〈今日の稽古、葵さん来るんだって〉
〈兄さんくるの〉
〈すっごくワクワクする!〉
画面からも伝わってくる橘平の興奮に、桜も行きたくて仕方なかった。向日葵たちの試合が観たいというより、遊びに行きたい気持ちである。
しかし今日までは妹の面倒を見ることになっていた。また辛さを味わう。
〈橘平さん、動画撮ってきて~〉
〈りょーかい!〉
にやついた顔で、橘平は通学用自転車にまたがった。
◇◇◇◇◇
そして稽古の時間がやってきた。
稽古場は18時から開き、18時30分から子供たちが準備運動や基礎練習を始める。仕事終わりの大人たちが集まるのは19時であり、それまで中高校生たちが先頭に立って稽古を行うのだ。
橘平も18時から稽古場にやってきた。今日から道着を着ることになり、より稽古への意欲が増す。
しかし、今日は
「なんだか保護者の数が多い気がする……な」
橘平はそう感じた。
18時20分ごろ、道着を着た向日葵が「きーくん!こんばんちわ~」大きく手をふりやってきた。
「向日葵さん、こんばんは」
彼女の隣には二宮蓮、後ろにはがっしりした大柄な男性がいる。なんとなくは顔を見たことがある大きな男性について、橘平は記憶を探る。
橘平と蓮はすでに挨拶程度の仲であり、今日も「こんばんは」を交わすと、蓮はそのまま子供たちの方へ向かった。
「やだあ、道着似合う~かわいい」
がっしりした男性が向日葵に尋ねる。「最近入った子?」
向日葵は笑顔から無表情に変わる。「そう、八神橘平くん」またほほえみに変わり「あ、きーくんこっちは」
「きっぺい……〈舎弟のきっぺい〉!?」
柔道場が吹き飛ぶほどの大声に、橘平は耳をふさぐ。
男性は目が飛び出るほど大きく見開き、橘平を凝視した。橘平も大きく見開き、男性の目を見る。
お互い相手と目が離せない。
「あ、あ、あなたがひまちゃんの……思い人!!」
「俺が思い人!? 向日葵さんの!?」
いきなりの言葉に、橘平は目を見開き、ぱちぱちさせる。
「高校生ちゃんよね?うそ、ひまちゃん」
「兄貴、何変なこと言ってんだよ!この子はただの高校生で舎弟!未成年にそんな気持ちあるわけないだろ!ってかなんでその登録名を」
「だだだだだって、ひまちゃん、お酒飲んで〈舎弟のきっぺい〉に電話してたじゃないぃぃ!!」
向日葵は血の気が引く。思い出したくもない失態だ。
「ああ!!あれは…ちょっとこっち!」
向日葵は兄の手を引き、外へ出て行った。
「あの人、向日葵さんのお兄さん? 岩みたい…」
橘平は樹への感想を漏らすと、ふとある事が思い出された。「外国のアメフト選手のようなでかくてごつい体で、優しくて、男気のある長男タイプ…」葵の好みのタイプの話だ。
「いや、まさかね。男女とも二宮が好き?ははは」
◇◇◇◇◇
橘平がそのことを思い出している頃、葵が柔道場の前にやってきた。
そしてちょうど、二宮兄妹が言い合っている現場に遭遇した。「あのカワイイ系男子高校生がきっぺーなの?女性じゃないの?」「はあ、何いみふめーなこと言ってんだ!!」
話の内容からすると、ついに樹が〈舎弟のきっぺい〉に出会ってしまったようだ。
葵は大きくため息をついた。
「樹ちゃん」
「ばばばばああああアオアオアオちゃん!僕ついに〈舎弟のきっぺい〉に」
「あの子の名前を借りてるのかも」樹の耳に近づき、内緒話のように「事情が、ほら」
樹は、「は!」と半径1キロ以内の空気をすべて飲み込むように息を吸い、「そうか、そういうことなのね…」妹を切なげにみつめる。
「僕は応援する」がっちりと両手で妹の手を握り、稽古場へ戻った。
「ええええ、な、何何??」
「…暴走してるだけだから」
俺のせいで、と心の中で謝罪し、葵も稽古場へ入っていった。
ぽつんと外に一人残された向日葵は、はてはてと眉を寄せながら5分ほど考えた。が、やっぱりよく分からなかった。
戻った樹に、橘平は「きっぺーくん、ゴメンね。僕、樹。ひまちゃんのお兄ちゃんだよ。よろしくね」と話しかけられ、しかも向日葵以上の力で抱きしめられた。どうも、彼らは抱きしめることが好きらしい。
何がゴメンか理解できなかったし、骨が折れそうな危険を感じた橘平であった。
◇◇◇◇◇
時間になり、本格的に稽古が始まった。やっぱり今日は人が多い。絶対的に多い。さらに増えている。
「やっぱ人、多いよな」
橘平がそう口にすると、たまたま隣にいた樹が「今日はウルトラスーパーレアの葵ちゃんがいるからね~」解説してくれた。
よく見ると、橘平の母もいた。
「かあさん……!!」
恥ずかしくて仕方ないが、田舎は情報が早いので、葵のことが母にも何かしらのルートで届いたのであろう。
稽古の前半は基礎固めである。コートの半分が子供、半分が有段者に分かれて行われた。ただ、まだまだ初心者の橘平は、端っこの方で向日葵からマンツーマンで丁寧に教わる。
ちらっと有段者コートに目をやると、葵たちが技の稽古をしていた。そのうち子供と大人合同でバク転やバク宙などアクロバットの練習も始まって、アイドル並みの視線が葵たった一人に注がれる。
保護者たちはまったく子供を見ていない。一般的に自分の子供の成長を感じるために見学し、写真や動画を撮って思い出にするものだが、葵がやってくると自身の子供は視界から消えてしまうらしい。
「葵さんもバク転バク宙、その他もろもろできるんすね」一旦、休憩となった橘平が感想を漏らす。
「小さいころからやってるもん。それに、きったんも私たちの仕事見たからわかるだろうけど、あれくらいの動きはできないとね。私ちょっとだけ、あっちの練習混じってくるね」
橘平も一度は葵にくぎ付けになったが、向日葵と蓮のほうがアクロバットな動きは上手かった。抜群に、と言っていい。向日葵はもちろんのこと、桔梗にクズと評される蓮も環境部に所属しているだけあり、運動能力は高いのだ。アイドルよりも彼らの動きのほうが、橘平をワクワクさせた。
戻って来た向日葵に橘平は、桜から葵との試合動画を頼まれたことを話した。撮ってもいいか、一応許可を取らねばと思ったのだ。
「いいよいいよ~葵には私から言っとくね」
「ありがとうございます。楽しみにしてるっす!」
「ふふん、秒で決めるから。見ててねん、私の雄姿!」
◇◇◇◇◇
稽古の後半、有段者たちの試合形式での稽古が始まった。子供たちにとっては見取り稽古の時間だ。補足すると、躰道は体重などでクラスが分かれないため、練習試合も体格は関係なく行われる。
橘平は初めて葵の試合を見た。妖物相手でも人間相手でも、洗練された刀のように、切れ味が鋭い動きである。
相手は蓮だ。二人の実力は伯仲しているようで、技を繰り出しあうもなかなか決定打が出ない。素早いのは蓮の方であるけれど、技の重さがなく避けられてしまう。葵は手足の長さを活かしてはいるものの、蓮が素早く躱す。それぞれの体格をいかした動きで試合は進むも、引き分けで時間切れとなった。
「なまってる君なら僕でもぼこせると思ったのに」
「……毎日仕事してるから、なまりませんよ」
向日葵は男性陣を身軽さで翻弄し、余裕で勝利していた。他にも女性はいるものの、彼女らでは向日葵の相手にはならない。
ついに、橘平待望の対戦が始まる。葵と向日葵の試合だ。
助け合って戦う二人しか見たことがない橘平は、興奮で動画がブレそうだった。隣の小学生に「三脚持ってる?」と聞いてみたが「あるわけないじゃん」と返って来た。橘平はなるべくブレない持ち方を模索する。
さすがに向日葵相手は危険なのか、葵はメガネを外した。
ギャラリーはざわつく。蓮は舌打ちし、樹は「カワイイお顔」と見惚れていた。
「すいませ~ん、ギャラリーの方々。皆様のアイドルけちょんけちょんにしちゃいます!今から謝っておきまーす!」向日葵は元気よく宣言した。
保護者含め大半の人間は向日葵の強さを十分知っているし、長く通っている人間はこの二人の対決を何度か見ている。むっとする見学者たちだが「まあ仕方ない」と飲み込む。なにせ、葵が向日葵に勝ったところを見たことがないのだ。
蓮はコートに立つ前の葵に「久しぶりにかっこ悪い君が見られるね」と余計なことを一言を添える。
俺はいつもかっこ悪いけど。
その思いで葵はコートに立った。
葵は周りからの評価が子供のころから理解できない。自分の何がかっこいいのか、素敵なのか、優秀なのか、全然わからない。一人じゃ何一つできない人間だから努力しているのに、家族が医者だから勉強はできて当たり前、有術も見た目も生まれつきと言われる。彼の努力は評価されたことがなかった。
自分の持っているもの、どれにも自信がない。それが三宮葵の中身だ。
剣術は刀という「相棒」がいる。武術は己しかいない。
身一つで立つ場所は、無意識に委縮してしまう。そんな「自分しか頼れるものがない」場所で、試合が始まった。
「よろしくお願いしまーす!」
向日葵は元気の良い挨拶そのまま、積極的に葵を攻めた。軽くて速く、柔らい動きに、他の有段者は追いつくのがやっとであったが、葵は食らいついていく。
疲労を狙う戦略もあるけれど、力強さと体力もある向日葵には使えない。葵はすれすれで技をかわすのに精いっぱいで、自らの技をなかなか出すことができなかった。
向日葵は向日葵で、すべて寸前でかわされ、技が入らないことにやきもきする。他の男性陣ならもっと余裕で技があてられるのに、と。
多少疲れが見え始めた葵の隙をみて、向日葵の鋭い蹴りが彼の胴を狙う。
「もらった!」
素手ではほとんど、葵は彼女に勝てたことがない。向日葵が圧倒的な強さを誇ることもあるけれど、葵は心の奥底に「勝ちたくない」気持ちがあった。葵自身は気づいていないことだ。無意識が勝手に、彼女とはそれ以上争わないように仕組んでいる。
変体斜上蹴りが当たりそうになった葵は、それを紙一重で躱した。いつもならそれで逃げてしまうところだったのに、倒れた向日葵にいつの間にか突きを入れていた。
葵の眼下に向日葵がいる。
「…なんで俺…」
本来なら自分がとるべき態勢を彼女がとっていた。
そこで試合は終了。葵の勝利で終わった。保護者たちは「良いものみた」顔で溢れている。
「…葵が…勝った」コートの上で大の字に倒れ込んでいる向日葵がつぶやく。
葵も勝てるとは思っていなかった。本当に向日葵は強い。彼自身、びっくりしていた。
嬉しいはずなのに、なんとなく向日葵に対して申し訳ない気持ちが湧いてきた。
向日葵はうっすら涙を浮かべている。
「え、向日葵」
「リベンジ!」
彼女は勢いよく立ち上がり、葵を指さす。「次は勝つから!!もう負けない!!」
試合終了のあいさつもそこそこに、ずんずんとコートから出て行った。挨拶が適当だと、唐揚げ課長に叱られていた。
◇◇◇◇◇
「向日葵さん!」
稽古後、駐車場に向かう向日葵を呼び止めた。
熱気あふれる稽古場から一転、肌寒さを感じる野外。向日葵は道着からスカイブルーのジャージに着替え、上からウインドブレーカーを羽織っている。
「お、なーに?」
橘平は試合動画を桜に見せていいのか尋ねた。彼女が負けてしまった試合だ、あまりいい気がしないだろうと考えたのだ。
「いいよ。撮っていいって言ったわけだし。なーに、気にしてる?勝つっていったのに負けたから」
「い、いや…」
「もう、優しいなあ、きっちゃん。汗臭くなかったら抱きしめちゃうのにい!」
いつものようにふざけた口ぶりではあるけど、橘平はその裏に別の感情が隠されていることを感じた。
「…じゃあ、見せます。桜さん、うちに来るし」
「でも橘平ちゃんにさ、私が葵より強いとこ見せらんなくてショックだよ~。ほとんど負けたことなかったんだよ?ホントだからね?」
「疑ってませんよ!」
「うふふ。次は勝つからね!楽しみにしててね」
そういって、彼女は、作り笑顔で帰っていった。
橘平の背後から葵が声をかけてきた。
「お疲れ様」
向日葵に勝ったというのに、敗北したかのような暗い表情だ。その理由は橘平には見当もつかないけれど、こういう時こそ、自分がお役に立てるのだと葵の手を取った。
「なんだ?」
手のひらにお守りを描いた。
「は? なんで?」
「葵さん、勝ったのに負けた顔してるから。あったかい気持ちになれるように…おやすみなさい」
そう言うと橘平は駐輪場へ歩いていった。ちなみに、母は車でさっさと帰ってしまった。
◇◇◇◇◇
帰宅した橘平は、早速、桜に報告した。
〈どうだった?〉
〈葵さんが勝った〉
〈えええ!? そうなんだ!?〉
〈うち来た時動画見せるね。接戦だったよ〉
〈楽しみ~妹の看病今日までだから、明日は行けるよ!〉
〈まじで?OK明日来て!〉
◇◇◇◇◇
古民家に戻った葵は風呂に入って汗を流した。
さっぱりすると、空腹を感じた。朝に炊きっぱなしだったご飯で不格好な塩むすびを作り、ソファに座ってむしゃりとかぶりつく。海苔なんて気の利いた食材はない。米のままむさぼる。
握り飯を腹におさめた葵は、テーブルの上にあるスマホを前に、電話をかけようか、それともメッセージを送るかで悩み始めた。相手は向日葵である。
なんと声をかければいいかもわからないけれど、向日葵と一言でいいから言葉を交わしたいのだ。「おやすみなさい」の一言だっていい。
橘平に「互角」と言い張ってきたのは、「負ける」と言うのが少し恥ずかしかったからだ。圧倒的に負けるわけでもないから、そう間違いでもなかった。
しかし実際勝ってみると、彼女のアイデンティティを奪ってしまったような気持ちになってきた。剣と有術で圧勝な葵、それが体術まで。二人の関係のバランスが崩れたりすることはないか心配になった。
「俺が安心したいだけなんだよな……」
突如、ごんごん、と玄関を叩く音がした。こんな時間に誰だろうと開けると、向日葵が北欧柄の買い物袋を提げて立っていた。「あがるよっ」そのままソファのある部屋に直行する。
葵は向日葵の不意の訪問に困惑した。予測不能の行動に「何の用だ?」と呼び掛けるも、彼女は無視して居間に入っていった。
向日葵は椅子をどかしてカーペットにどかっと座り、葵にも隣に座るよう敷物をバンバンと叩く。葵はとりあえず、促されるままに座った。
テーブルに買い物袋を載せ、向日葵が取り出したのは500mlのビール缶二本。
「おい、なんで酒なんか」
「飲まなきゃ!」
向日葵は缶を手にする。
「飲まなきゃあ話せない気がするから!だって今話せないもん!!すっごく話したいのに!!」
「ぶっ倒れるだけだろ!!」
葵がビール缶を奪おうとすると、向日葵が両手に抱いてダンゴムシになり阻止する。
「ぶっ倒れたら兄貴呼べ」
「何時だと思ってるんだ」
「ヤツは来る。大丈夫」
兄を嫌いだという癖に、妙に信頼し、結局甘えている向日葵。ビール缶を二本ともあけ、一本を無理矢理、葵に飲ませた。樹から聞いた話と同じ手法だ。
持てる力を振り絞って怪力の向日葵の手を払うも、いきなり飲まされ、葵は悪酔いしそうだった。
向日葵も一気飲みした。
「あ!! 飲むなって!!」
顔が真っ赤を超えたところで、向日葵は大きくげっぷをし、力の限り葵に抱き着いた。
「いっ!」
「嬉しかった!!!」興奮した声で叫ぶ。
「な、なにが、だ……い、痛いから離せ!!」
葵の訴えは無視され、向日葵は抱きしめ続ける。
「葵が素手で私に勝ってくれて、すっごく嬉しかったのお!」
「はあ?」
「だって、葵はいつも何かに頼ってたから。有術とか刀とか。優れてるのは自分じゃない、生まれつきの能力。俺はダメだ、何もできない、だからモノに頼る」
抱きしめる力が柔らかくなる。
「本当はできる奴なのに、自分にとことん自信がない。自分の力を信じられない。そこがね、私はずーっっっとやきもきしてたのさ。だから、素手じゃ私に勝てなかったの」
ハリのある声から、空気を含んだささやきに変わった。
「私は分かってたのよ。本当は私に余裕で勝てる力があるのに、最後の最後で自分の力が信じられなくなっちゃって、負けるの。あとあれか、遠慮もしてたかな」くすぐるような小さな笑い声が葵の耳に入ってきた。可愛らしく、心地よい声だ。「有術は、刀は、自分じゃないから。一人じゃないから自信がある。でも自分一人、頼れるものがなくなると……葵は葵に負けてた」
向日葵は体を離し、葵の首の後ろで両手を組んだ。
光を反射しないほど真っ黒な彼の瞳をじっと見つめる。
「これでもう大丈夫だね。葵は葵に自信が持てた。良かった。『なゐ』とも戦える。私の分までぶっ殺して。ああ、そうきっとこれは」
へへへー、と気の抜けた顔になった彼女はあの名を呼ぶ。
「橘平ちゃんのおかげだ~」そう言い、葵を優しく抱きしめた。
また橘平か。
葵は心の中でぽつり言う。
でも今では葵も、その名が出ることに疑問は湧かなかった。
葵が向日葵を抱きしめ返そうとすると、彼女は爆発したようにきゃはは、ぎゃははと高い声で笑い始めた。葵は両耳に指を突っ込む。
彼女はジャージのポケットからスマホを取り出した。テーブルの上で電話帳を検索し、かけた相手は〈舎弟のきっぺい〉。
「おい、また舎弟に電話って」
橘平はすぐ電話に出た。
『なんですか~ひまわりさ~ん。もう寝るんすけどぉ』
その声を聞くと向日葵は大声で笑いながら、「わー、きーちゃんこんばんは~あのねー、わたしはあれよ、酒の力に頼らないと、言いたいことが言えない、さいてーのにんげんなの~あはははは!!!」
橘平が声というより「はぁ……」二酸化炭素を吐き出して答えると、ふっと向日葵は陰のある表情を見せ、憂いのある声で心の内を吐き出した。
「お酒にも、橘平ちゃんにも頼らないで、本音を言えるようになりたいな……」
向日葵はしばらく沈黙した。葵も、おそらく電話の向こうにいる橘平も今、向日葵に対して同じ気持ちを感じているだろう。
葵は「向日葵」と小声で呼びかけ、肩に手を置いた。
とたん、彼女は笑い袋のように高い声で爆笑しはじめ、今度は「とんでもない昔話」を始めた。電話越しの橘平はばっちり目が覚めてしまったことだろう。葵も血の気が引いた。
「お、おいそれ…!!」自身の尊厳にかかわりそうだったので、向日葵からスマホを奪い取ろうとする。
向日葵は身軽にくねくねと逃げまくる。ふらついたところで葵は手首を強く握り、電話を手から剝がしとった。そして、即、少年との通話を切った。
直後、「ふうう、うう…うあーん!!」彼女は泣き出し、座り込んだ。
「ええ、だ、大丈夫か?」
葵も座ると、彼女が抱きついてきた。
「えーん、きもちわるいよお……」
「あ……!!」
葵は察すも時すでに遅し。向日葵は彼に抱きついたまま大量に嘔吐し、抱きついたまま気を失ってしまった。
「また……俺って吐きやすいのか?」
泣きたいのはこっちだという気持ちだが、とりあえず葵は向日葵を横にした。
葵はまず自身の黒の寝間着を上下とも脱ぎ、風呂場に放り投げた。バスタオル1枚、そして浴用タオル1枚と雑巾を水で絞り、居間に戻った。
向日葵もジャージ上下ともに吐瀉物が付いてしまっったので、バスタオルで汚物を軽く取り除いた。浴用タオルでは口まわりを拭く。顔はメイクが濃いためにそのままにしておいた。
次にカーペットの上に落ちてしまったそれらも雑巾である程度ぬぐう。後で、洗濯するつもりだ。
そこまで終え、葵は樹に連絡した。「もしもし、樹ちゃん? 実は…」向日葵が酒を飲んで吐いて倒れたことを伝えた。
『ええ!?ちょー、ひまちゃん!?ってかなんで葵ちゃんとこでええ??』
葵に話に来たとは言えず、「……分からない。突然のうちに来て、それで……俺も飲まされた」
『おん…あおちゃんも被害者に』
「迎えに来てもらえると助かるんだが」
『ホントゴメン、妹がご迷惑を…でもねえ、僕もよう子ちゃんもお酒飲んじゃってさあ。運転できなくて。公務員だから法を破るわけには……』
「それは公務員じゃなくても守らないとな」
『うむむ、桔梗様にお電話しようかしら』
悪い人ではないけれど、どういう経緯か粘り強く吐かせそうな人選だった。
「親戚とはいえ、上司に私生活で面倒をかけるのは。向日葵も後で気まずいだろうし」
『そうかあ、じゃあどうしよう……またゴメンねなんだけど、一晩そこに泊めてくれるかしら?明日、朝イチでうかがうわ』
妹が知人の男性の家に一晩泊まる。字面にすれば兄として警戒すべきことだけれど、相手は幼少時から兄妹ともに仲良く過ごしてきた葵だ。樹は葵なら大丈夫という絶対の信頼を寄せていた。
桔梗が迎えに来るよりは何万倍もマシだと思った葵は「……わかった。じゃあ明日よろしく」向日葵を一晩泊めることにした。
樹との通話を終え、カーペットの上でいびきをかき始めた向日葵を見下ろす。
「ジャージ臭うよなあ。どうしよ。このまま寝かせるわけにも……」
葵は向日葵のジャージを脱がすことに決めた。良からぬ気が起こりそうな行為だが、対象が悪臭のため、下心は一切生じなかった。葵は淡々と脱がせた。
一応、下着だけになった彼女の臭いをくん、と嗅いだ。
「くさいのはジャージだけだな」
念のため、自身の臭いも確認する。大丈夫そうだった。
葵は彼女を寝室まで連れていき、自分の黒のジャージを着せ、ついでに自身もモスグリーンのスウェットに着替えた。
そして布団を二組くっつけて敷き、片方に向日葵を寝かせた。くっつけたのはせめてもの「抵抗」である。
いびきはおさまり、気持ちよさそうな寝息をたてている向日葵の寝顔。顔にかかかっている髪をどけてやりながら、葵は先ほどの彼女の言葉を思い出していた。
―有術は、刀は、自分じゃないから。一人じゃないから自信がある。でも自分一人、頼れるものがなくなると……葵は葵に負けてた。
「よく知ってんな、俺のこと」
そう言い、葵はタオルやジャージの洗濯のために寝室を出ていった。