「人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人」
孔子はこう言ったそうな。
「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」(『論語・為政』)
何度読んでも、しっくりこない。
当たり前か。
自分を振り返ると、そんな人生を歩んでいないからだね。
歳をとるごとに、勉強しなくなるし、自発性はなくなるし、迷ってばかりだし、自分が分からなくなるし、思いやりもなくっていっている。
こりゃどうしょうもない奴だわ・・・と思っていたところで、岡倉天心さんがいいことを言っていらっしゃる。
「世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている」(『茶の本』花、 村岡博訳)
"It has been said that man at ten is an animal, at twenty a lunatic, at thirty a failure, at forty a fraud, and at fifty a criminal." (The Book of Tea)
本当に山師や罪人だというわけではないけれど。
この社会で生きていくために、この「自分」を守るために、程度の差こそあれ、他人にも自分にも嘘をついてきたし、いろんな罪を背負ってきた。
孔子の言葉には「こんな風にはいかなかったなぁ」って自責と後ろめたさを感じるけれど、天心の言葉なら「あぁ、そんなもんだよね」って安心感とささやかな自己肯定感がある。
ちなみに天心のこの一文の前後は次のようになっている。
「悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。羊の皮をむいて見れば、心の奥の狼はすぐにその歯をあらわすであろう。世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。たぶん人間はいつまでも禽獣を脱しないから罪人となるのであろう。飢渇のほか何物もわれわれに対して真実なものはなく、われらみずからの煩悩のほか何物も神聖なものはない。神社仏閣は、次から次へとわれらのまのあたり崩壊して来たが、ただ一つの祭壇、すなわちその上で至高の神へ香を焚たく「おのれ」という祭壇は永遠に保存せられている。われらの神は偉いものだ。金銭がその予言者だ! われらは神へ奉納するために自然を荒らしている物質を征服したと誇っているが、物質こそわれわれを奴隷にしたものであるということは忘れている。われらは教養や風流に名をかりて、なんという残忍非道を行なっているのであろう!」(『茶の本』花、 村岡博訳)
「金銭」と「物質」を得るために、欺瞞を抱く「おのれ」こそ、偽らざる姿なのだろう。
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