これだけの自分...だけど、これでいいよね?
有名人とか、地位や権力のある人たちのの名前を、ポンポン出して、いかにも「彼らを知ってるんだぞ~」とカッコつけることを、name-dropping (名前落とし)という。
自分がそういう「すごい」人たちと知り合いだと思うだけで、格が上がったような気分になるのだろうけど、「思う」だけじゃだめなので、実際にそういう人たちと、何らかのつながりを得ようと、日々、人脈作りに精を出す。
幸い、周りにもそんな人はいないし、別世界のできごとだと思ってた。
ところが、自分も、過去に、これの延長のようなことをしていたようなのだ。
その人は有名人でもなければ、権力者でもなかったけど、かっこいいイギリス人だった。だから、私はその人を夫にし、彼の姓をカタカナで名乗り、ハーフの子どもを授かった。
当時はそんな自覚はゼロで、恋に落ちて結ばれた相手としか思っていなかったけど、あの頃の私は「外国人のすてきな夫を持つ女」というレッテル(identity)に酔いしれ、自分が何か特別な人間になったかのような錯覚に陥っていたのではないか。
今でこそ、国際結婚はめずらしくないが、30年前は、西洋人の夫を持つということだけで、いちいち目立ったし、ハーフの子ども達と連れ立ち、電車に乗り、英語でペラペラと会話を交わす時の、あの高揚感!
「一流企業のエリート社員」や「家柄のいいおぼっちゃん」の妻なんかには絶対ならないぞ!と勇んでいた私が、ちゃっかり「西洋人」の妻になっていた。
知り合いの日本人にイギリスの大学教授と結婚した人がいた。「遥かなるケンブリッジ」を読んで以来、大学教授の妻として、イギリスに住むのが夢だったとか。夫は夫で、15歳も年下のきれいな日本人女性をゲットできた喜びでいっぱいだった。
イギリスの著名な大学教授と、若く美しい日本人淑女。ケンブリッジ大学での結婚式の写真は、絵物語のようだったけど、まもなく、関係は暗礁に乗り上げ、悲惨な一途をたどるはめに...
あこがれの彼、彼女。それは、まるで思春期の恋のよう。
野球部のエース、学校一の美女、生徒会委員長。みんなのあこがれの的に、好かれようものなら、その瞬間に、自分の価値が倍増する(ような気がする)。
野球部のエースに誘われたあなたが、いくばくかの優越感を隠しきれないのは致し方ないこと。学校一の美女のハートを射止めた君は、みんなの羨望の的~
エリート社員やお医者さまの奥さんになったあなたは、どう?
大学教授の妻の口から吐き出されるのは、夫の悪口ばかり...
私の場合は、夫のことが本当に好きだった。そして、彼も私を大事にしてくれた。でも、その惹き合ってたものが、お互いのニーズ*だったということが、ずっとずっと後になって、わかった。〈*ニーズについては、また別の機会に)
私は、すてきなイギリス人との暮らしを維持するために、彼のニーズを満たそうと、必死に努力した。自分自身のニーズは後回しにして...
でも、それは長続きしなかった。
このたった3語の問いは、大きな揺さぶりを招き、それまでの地盤をくつがえした。
自分自身のニーズを見極め、それを自分で満たすことを学び、自分の価値を再確認し...私の「自分を取り戻す」作業は、それから15年ぐらい続いた。
自分という人間が何者かがわかってきて、自信がついてくると、他人のアイデンティティに頼る必要がなくなってくる。...というか、そんなの嫌だと思えてくる。
そんな風に思えるようになって、からだも心も軽くなってきた。クスクス笑いながら、ぴょんぴょん跳ねたくなるような、愉快で軽やかで楽々~な気分
ひとりでも、けっこう、ハクがつくもんだね~