
「イベリン:彼が生きた証」(2024、ノルウェー) ※全編ネタバレ
筋ジストロフィーによって、25歳で亡くなったマッツ・スティーン。子供の頃に車椅子生活となった彼は、自由行動ができない代わりにゲームにのめり込むようになっていきます。
体が日に日に弱っていくなか、友達付き合いも恋愛も、誰かに影響を与えることもなく、オンラインゲームに明け暮れる日々。そんなマッツを家族は悲嘆しますが、彼の死後、両親宛に届いた仲間たちからのメールによって、それが壮絶な誤解であったことを知ります。
本作はオンライン上に残された過去のログやマッツ自身のブログ、そして彼と接した者たちのインタビューをもとに、ハンドルネーム"イベリン"として生きた「もう一つの人生」を再構成していこうというもの。そこには確かに友情も恋愛もあり、チャットを通じて相手のご両親に訴えかけたり、家族関係の相談にも乗ったり…と、ただのゲームプレイヤーとは一線を画する、相手方への強い働きかけがあります。その強い働きかけは相手を動かし、精神的に救っていくこととなります。
しかし、難病患者であることをひた隠しにしていたマッツはオフ会にも参加せず、自分の本当の姿を見せるということを一切しません。仲間たちがオフ会の様子をシェアしても、彼はただ「いいね」を押すのみ。
そして死期が近づくにつれ悪口をいうようになったり(せん妄でしょうか…?)、手が動かなくなったせいで仲間を助けられなくなったり…と、明らかな挙動不審が見られるようになります。特に攻撃的な発言を巡って、彼のもとを離れていくメンバーも少なくなかったようですが、以前相談に乗ったユーザーから病気を疑われたことをきっかけに、病気を告白し、苦しい胸の内を打ち明けます。
「病人と思われたくない」
「同情されたくない」
この言葉は(筋ジストロフィーではないですが)過去に大病・難病を経験した人間として、妙に共感してしまうところがありました。
なお、もととなったブログを読んでみると、「病人と思われたくない」という言葉には、彼が現実の人生で「病人」であるがゆえに、友人だと思っていた人たちに悲しい経験をさせられたという一節が見つかります。
There were two boys I used to play with, thinking they were my friends and that I could depend on them. Sadly I think they took advantage of my condition instead, they could stay inside, and all they had to do was play with me. How sad is that? Kids can be cruel sometimes, often without realizing. I learned that the hard way. When I truly needed them, they were never there.
一緒に遊んでいた男の子が二人いました。彼らは私の友達であり、頼りにできると思っていました。悲しいことに、彼らは私の病気を利用して、家の中にいて、私と遊んでいればいいだけだったと思います。なんて悲しいことでしょう。子供は時々残酷になることがあります。多くの場合、それには気づかないままです。私はそれをつらい経験から学びました。本当に私が彼らを必要としたとき、彼らはそこにいませんでした。
若干不明瞭なところはありますが、これもまた共感してしまう箇所です。マッツがイベリンとして立ち振る舞った背景には、実際に目にした「彼ら」のようにはなりたくないという思いがあったのかも知れません。
オンライン、特にゲームの世界は現実逃避のための世界と思われてしまいがち。これを観るまでは私もそう思っていましたし、実際マッツのご両親も生前はそう受け止めていたようです。
しかし、このドキュメンタリーを観ていると、理想化されたアバターの向こうに実際の人間が、そして人生があることを改めて思わされます。"イベリン"として参加・形成したコミュニティはオンライン世界と現実とがどこか入り混じっており、その濃度は実世界以上に濃厚だったのかもしれません。
月並みな言葉ですが、「生きる」ということを考えさせられるドキュメンタリーでした。