近世百物語・第百夜「天寿・そして死後の世界へ」
近世百物語も百話目となりました。これですべての物語を終わりますが、私の霊体験は、日々、し続けていることもあり、これで終わりではありません。また、続きを書くかも知れませんが、今の時点で皆さんにお話しして問題のない部分はこれで終了することにします。
さて、今まで多くの先輩や師匠が亡くなりました。もちろん、曾祖父も祖母もかなり昔に亡くなりました。生きていれば、このようなことは起こりますが、私はそれを悲しまず、未来につなげて生きることにしています。それは大きな木が倒れることに似ています。大木が朽ち果てて倒れれば、その場所に新しい芽が芽吹くのです。しかし、私に取っての亡くなった人々は、静かに眠ってくれているだけの存在ではありません。亡くなる時に挨拶に来る人もいます。また、ある人は、亡くなってからしばらくして、毎晩、夢の中にその姿を表すこともあります。いずれにしても静かにしているのは、死にそうになっていた時だけのお話です。われわれの播磨陰陽道は、死後の世界に自分の意識を留めておくことを目標とし、様々な技法を伝え残しています。諸先輩やら師匠たちが死後の世界から語りかけて来ることを見ると、幻覚を見ているのか、さもなくば、その技法が真実であるかのどちらかだと思います。どちらでも良いですが、夢の世界から多くを語りかけて来て、時々、正しいのですから、信じない訳にもゆかないと思います。
2009年9月から夢日記を書きはじめて1500日ほど書きました。その間、様々な霊的な夢を見ました。もちろん、ただの夢や記憶を整理する種類の夢も多いですが、基本的には、毎日、夢を見ていました。
多くの他の霊能者に、
「記憶を整理するような夢はおかしい」
とか、
「毎日、夢を見るのはどうかしている」
と非難されたこともあります。しかし、それらの人は、自称の域を出ない場合が多いと思いました。
私には、とても彼等が、
「自分を鍛え、そして学んだ種類の霊能力を持っている」
とは思えませんでした。見た〈夢〉は忘れているだけで、毎日見ているものです。そして知られていないだけで、〈夢〉の多くは記憶を整理するものなのです。
自らの感情を制御するのは、霊能者の最も基本的な技術のひとつです。感情を制御出来ず振り回されるのなら、どうやって霊的なものと対峙するのでしょう?
少しでも霊能力を駆使出来るのなら、自分の感情はきちんとコントロール出来る筈だと思いませんか?
感情も霊能力の一部です。そして肉体も感情も心の一部です。全体が各部分に影響を与え、また、各部分の影響も全体に反映されてゆきます。
つまり、
——霊を自在に操れる能力を持つ人は、自分の感情や肉体を自在に操ることが出来る。
と言う意味なのです。
曾祖父の葬式から何日か経ったある時、こんなことがありました。目を覚ますと曾祖父が近くに座っていたのです。
「亡霊?」
と思わず叫ぶと、
「亡霊とは、迷いや未練を持つ者の死にたる後の姿なりや」
と答えました。曾祖父の意識はハッキリしているようでした。晩年は少しボケていたと祖母たちが言っていましたが、受け答えはきっちりしています。しかも、古語で受け答えしている姿は、生前と何ら変わるところもありません。
「大おじぃは、生きているの、それとも死んだの?」
と尋ねると、
「死にたる後にも心をとどめ、今、お前と話をしたるが、吾が姿はクッキリと目に写りしか?」
と言われました。
「生きているようにハッキリと見えます」
と答えると、少し笑って、
「では、口伝を伝える」
と言われました。それから何度か私の前に現れては口伝を教えられました。
曾祖父は、突然、姿を表すことと、やはり、突然、消えて見えなくなること以外、生きている頃と変わりませんでした。
曾祖父も祖母も師匠たちも先輩たちも、それどころか、直接、生きていた頃のことを知らない先祖たちまでも、時々、私の夢や現実の世界にその姿を表しては様々な物事を教えてくれます。怒られたり小言を言われることも、時々、ありますが、おおむね良い関係だと思います。
この世界での人の死にはいくつか種類があります。それを播磨陰陽道では〈人の生き死にの伝え〉と呼びます。
これは、まず、
——世に言うところの人の生き死にに、各々の四種あり。
と言う言葉ではじまります。
そして、
——死に方がはじめは天寿をまっとうすと伝われども、天寿とは年老いて病に死することなれば、死に方がはじめは病に伏すと言うべきところなり。
と続きます。実際、無病息災で天寿をまっとうする人はごく稀なようです。
次に、
——事故にて死する。
が続きます。
そして、
——人に殺さるる。
と、続き、
——みずから死する。
で終わります。伝承ではこの四種類が〈人の死に方〉として定義されています。
この定義では、
——世に言うところの腹切りは、自ら死することなるが、首を括るは自ら死することにはあらぬなり。首を括りたる者は、所詮は世の中に殺されたるもの故、人に殺さるるに属す。
と伝えています。
また、生き方については、
——世に言うところの人の生き方に同じく四種あり。
と伝えています。生き方のはじめは天命に従うとありますが、天命とは強い意志を用いて自ら生きることですので、この伝承での〈生き方のはじめ〉は、
——病に自らを翻弄するが相応しい。
と伝えています。
そして、これには、
——さりとて、人は心の病に翻弄さるること多し。
と注意書きが付いています。
次に、
——他人に翻弄される。
と続きます。この他人に翻弄されることが生き方の中で最も多いと伝えています。
それから、
——運命に翻弄される。
があり、最後に、
——自ら生きる。
があります。この自ら生きるが、すなわち天命に従うことです。
また、この伝承の最後の部分には、
——いずれを選ぶも自在なりしが、人の生き死には人生と呼べるべきものにて、現世の内にありと知るべきこと肝要なり。
と注意書きが付いています。
この近世百物語の最後は伝承を書いて終わります。ずっと祖先たちから伝えられて来た伝承は、死んだ人々の古い知識ではありません。今も、そして未来でも、生きている知識なのです。それをどう使い、どう生かすかは、この世に生きているわれわれに託《たく》されているのです。そして、死んだ者と生きている者の決定的な違いは、
——死んだ者には新しい概念を造り出す力がない。
と言うことです。この世に生きていると言うことは、すでに死んだ人々が残した知的な遺産を活用し、生かすことが出来ると言うことです。それを皆さんの人生に役立ててください。播磨陰陽道の文章を読むことはキッカケにすぎないのです。ここで終わりますが、これからも私の体験が皆さんの心の中で記憶として生きていられることを嬉しく思います。長くなりましたが色々とありがとうございました。近世百物語これにて〈完〉
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