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近世百物語・第六十夜「お遍路さん」

 子供の頃、よくお遍路へんろさんを見かけました。四国の八十八ヶ所を歩くあのお遍路さんです。行くところへ行けば珍しい姿ではないのでしょうが、なにせ十勝平野のことです。北海道には弘法大師の霊場などあろう筈もありません。それどころか寺や霊場すらあまり見かけません。お遍路さんたちの姿は、いつでも必ず、祖母の家の近くでのみ、見ていました。しかも夕方か夜にしか見たことがありません。
 お遍路さんどころか、虚無僧こむそうの姿も、托鉢僧たくはつそうの姿も、それから法華衆ほっけしゅう山伏やまぶし瞽女ごぜの姿さえ、祖母の家の近くでは珍しくありませんでした。もちろん、他の場所では見かけたこともありません。
 今にして思えば、
——それは、とても不思議なことだ。
 と思います。と言うのは、昭和の三十年代中頃から四十年代にかけてのことです。それらの人々は町を歩いていたでしょうが、それは霊場とか施設あってのことです。何もない筈の十勝平野の真ん中で、しかも、アイヌ人たちの聖地の近くを歩いているなんて不思議でなりません。

 虚無僧は尺八を吹きながら托鉢する僧侶で、頭から〈天蓋てんがい〉と呼ばれる深網笠を被って歩いています。友人に現役の虚無僧がいますが、私が子供の頃も、そして、今でも珍しい種類の人だと思います。
 虚無僧は、一説によると、

——楠木くすのき正成まさしげの子孫が僧となり、その号を〈虚無〉としたから。

 とも伝わります。ちなみに、播磨陰陽道は、楠木正成公の伝えた霊術を技法として持っていることから虚無僧を大切にします。

 法華衆は丸い太鼓をドンドンと叩いて法華経をあげる人々です。
 ちまたでは、
——ドンドン良くなる法華の太鼓。
 と揶揄される人々です。『ウルトラQ』のカネゴンのところにも出てきました。太鼓の音が印象的です。彼らも不思議と実家の近くにはおらず、祖母の家の近くで見かけたことが多かったのです。

 瞽女は目の見えない三味線弾きのことですが、祖母は彼女たちのことを、
「歩き巫女みこたちが、また来た」
 と言っていました。瞽女をなぜ、歩き巫女と呼んでいたのか理由は分かりません。
 何度かそれらの人々を見かけては、一度も不思議に思ったことはありませんでした。いつも普通にいたのです。今になって考えると、その人たちは、いったい何のために、そしてどこへ行っていたのでしょう?
 彼らの何人かが、やはり祖母を訪ねて来たのを幼い頃に何度か見た記憶があります。祖母は丁寧に挨拶をして出迎えていました。しかし、彼らが来るのは夜の遅い時間になってからで、しかも早朝には出て行くようです。昼間には彼らの姿を見たことがありません。
 以前、『近世百物語』第五十一夜の中で、異形のものが祖母を訪ねてきたことについて書きましたが、最近になるまで、
——虚無僧やお遍路さんたちは人だ。
 と思っていました。しかし、冷静になって良く考えると、人ではなかったのかも知れません。
——正月の獅子舞とか、万歳楽の姿は、資料でしか見たことがないのに……。
 と思うと不思議な気がしました。

 不思議と言えば、祖母は赤い単衣ひとえの着物を着ることをとても嫌っていました。
「あれは、無実の罪を負わされた人が着せられるものじゃ」
 と言っているのを聞いたことがあります。
 そして、
「赤い着物姿の男の亡霊は、怖ろしい恨みを持った存在だから、けして近付くでない」
 とも言って、怖れていました。
 その赤い着物姿の男の亡霊らしきものを、私も何度か見たことがあります。しかし、その亡霊たちは、いつでも、私を守ってくれているようでした。小さい頃、死にそうになった時は、近くに現れては守ってくれました。
 大きな犬に追い掛けられて、噛まれそうになった時も姿を現しました。犬は亡霊を見て逃げて行きました。多くの人に見えない亡霊も、犬には見えると言います。
 ある時、祖母に
「あの赤い着物姿の亡霊たちはどんな種類の?」
 と尋ねました。しかし、
「あれについては、知るべきではない」
 と言って、教えてくれませんでした。
 赤い亡霊は何なのだろう? そんな疑問が渦巻きました。それが、中学生の頃のことです。本を読みあさっていると、赤い人々のことについて書かれたものを見つけました。赤い人々は、北前船きたまえぶねで北海道に連れてこられたサムライたちだったのです。赤い着物だけを着せられて、旧幕府に属する罪人として北海道の開拓に使役されました。もちろん真冬でもこの姿です。彼らの多くは重労働の末、厳しい自然の中で凍死してゆきました。
 前から不思議に思っていたことがあります。
 幕末にあれほどいたサムライが姿を消したのはなぜでしょう? いったいどこへ行ったのでしょう?
 彼らは最果さいはての地で、赤い着物を着せられ、罪人扱いを受けて、消されたのです。多くは凍死し、あるいは厳しい自然の中で命を落しました。明治維新はそのような残酷な犠牲の上に成り立っているのです。
 そのことを知り、
——あぁ、彼らが私を守ってくれていたのか。
 と、思いました。

 子供の頃の十勝平野は、アイヌ人のシャーマンや虚無僧たち、お遍路さん、そして赤い着物姿の亡霊で溢れていたような気がします。私に限ってのことかも知れません。しかし、けして彼らのことを忘れはしません。そして、この国を支えてきた、名もない人々や、その死後の姿を、やはり忘れることはないと思います。
 播磨陰陽道は、そのような人々が伝えてくれた古い日本の原風景のような知識です。私ひとりが独占すべきものではなく、日本語を知っている日本人全体が知り、そして理解すべきものだと思います。
 われわれ播磨陰陽道での日本人の定義は、

——古き日本語を知り使う者すべて。

 です。人種には関係ありません。その意味から、霊的なものもすべて日本人だと思っています。
 時々、

——陰陽道は古い中国から来た宗教だ。

 と誤解している人がいます。これはまったくの間違いです。陰陽道はわが国で独自に変化し、日々、進化し続けているのです。しかも宗教ではありません。古い中国から来たのは道教です。確かに陰陽道では道教の神々も扱いますが、それはあくまでも神事を扱う場合のことです。道教と陰陽道がごっちゃになっている人が多いです。陰陽道はあくまで技法であり、道教ではありません。
 だから播磨陰陽道が扱う霊的な物事を、
——すべて迷信だ。
 と軽く考えるべきではないのです。そして、この世の深い知識と真実はここにあります。

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