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近世百物語・第八十五夜「奇妙な音の正体は?」

 トントンと壁を叩く音が深夜の室内に響いたのは、墓場の近くに住んでいた頃のことです。お盆が近くなると、時々、壁を叩くような音が深夜に響くことがありました。壁に耳をつけて聞いてみると、壁を叩くと言うより引っかいているように聞こえました。そして、時々、引っかく音にまじって、押し殺したようなすすり泣く声が、微かに聞こえていたのです。私の住んでいた部屋の隣はずっと空室になっていました。
 ある時、両親が田舎から遊びに来ていて、私の部屋に泊まったことがありました。真夜中に母が、突然、目を覚まして、
「壁を叩くのは誰?」
 と尋ねました。
 私は、
「誰でもないよ。ただお盆が近いだけさ」
 と言って、ベランダに出ました。
 母も、ついて来たので、身を乗り出して隣の部屋の室内を懐中電灯で照らしました。すると、隣は確かに空家です。ただガランとしていて何もありません。誰かがいて壁を叩けるような状況でもないのです。その日はそれで終わりました。しかし、両親が帰った次の日の真夜中は、壁をトントン、どころか、ガンガン叩き続けるのです。とても、うるさいので共用の廊下に出てみました。すると、シンとして静まり返っています。部屋の戸を開けて、半分、頭を突っ込むと、まだ、部屋の中だけに音が響いています。
——なんだ、ここだけに聞こえるのか?
 と思い部屋の中に帰りました。
 それからおもむろに拍手かしわでを二回打つと、音が止みました。
 その時、
——拍手程度で終わるなら、もっと早くに打っておけば良かった。
 と思いました。

 また、ある時は、自宅のトイレに入ると、カリカリと壁を引っかく音がします。ひと通りまわりを見ましたが、別に変わった様子もありません。拍手を打って終わりました。
 次の日、出かけた場所でトイレに入ると、また、昨夜と同じ方向から同じ音が聞こえました。仕方がないので、そこでも拍手を二回打って祓いました。
 その時、ふと、
「身近に、死ぬ人でもいるのだろうか?」
 と思いました。
 何日かして、
「遠い親戚が亡くなった」
 と連絡が入り、音については納得しました。

 また、ある時は、深夜に寺の近くを歩いていると、墓場でガリガリと言った、何かを噛み砕く音が聞こえました。ほとんど街燈のない暗い墓場でした。音が気になってへい越しに覗きました。そこから記憶がありません。
 ふと、気がつくと、私は自宅の玄関にいて、ドアをしっかりと押さえていました。どうやって帰って来たものか、まったく記憶がないのです。普段から酒は飲まないので、酔って記憶をなくすようなことはありません。墓場を覗いてから家に帰り着くまでの一時間くらいの出来事が、記憶からすっぽりと抜け落ちているのです。
 とっさに、私は、
——これは、怖しい体験をしたに違いない。
 と思いました。
 そして、すべてを思い出そうと、自分に術を使ったのです。その術は忘れた記憶を取り戻す種類のものです。記憶は夢の中でのみ再現されます。夢の記憶を正確に持つことが出来なければ使い物にはなりません。しかし、術を使おうとすると、吐き気や腹痛に襲われて、なかなか眠ることもままなりません。仕方がないので、その日は諦めて忘れることにすると、吐き気も腹痛も治ってしまいました。
 次の日、
「昨夜、通った墓場へ行ってみよう」
 と思いました。
 その時、足が向かないと言うか、足がすくんだのです。
——この程度で足止めのようなことになるなんて、落ちぶれたものだな。
 と、自分で思いました。
 その頃、私は二十歳を過ぎたばかりでした。様々な霊的な体験を積んでいるとは言え、まだまだ経験不足です。だから霊的に危険な場所へは好んで出かけていました。
 深夜に墓場に着いた時、やはりガリガリする音が聞こえました。今度は覚悟して、塀に手をかけ、小さな声で祝詞を唱えながら墓場を覗いたのです。墓場の奥に人影が見え、青白く光っているような気がしました。人魂のようなものもまわりを飛んでいました。
 私は見たものを疑いました。と言うのはそれは人喰いの鬼婆のようなものだったからです。
——まさか、日本昔話ではないのだし、それに墓場は土葬ですらないし。
 と思いジッと見つめました。
 視線に気づいたのか、鬼婆がこちらを振り向くと、怖ろしい表情でにらんでいました。しかも、口に人骨のような物を銜《くわ》えているのです。後ろが微かに透けて見えたので亡霊だと思います。
 かなり怖ろしい表情です。
——これに、やられたのか……。
 と思うと、突然、怒りがこみ上げて来て、そのまま睨み返しました。しばらく睨み合いが続きました。墓場で、しかも真夜中に塀を挟んで睨みあっているのです。知らない人が見たらどちらも不気味だと思いますが、誰ひとり通る気配もありません。
 と言うのは、
——この墓場には化け物が出る。
 と昔から噂があったからです。
 本当かどうかは知りませんが、
——化け物に、とり殺された人がいる。
 とか、
——化け物に追いかけられた後、原因不明の高熱が出て気が狂った。
 とか言った噂もありました。
 高熱は化け物の所為せいではありません。単に化け物を見たと言う恐怖の記憶が、ストレスを与えた結果、高熱が出ただけです。
 さて、私は口の中でブツブツと祝詞を唱えました。祝詞の声が次第に大きくなってゆくと、さすがに、むこうも驚いたのか表情が変わりました。しかし、どう変化したのか確認もせず、そのまま拍手を打って祓ってしまいました。一瞬、鬼婆は驚いた顔を見せ、そのまま消えてゆきました。後には喰べていた筈の人骨も見当たりません。それごと亡霊だったのです。
 この記憶は思い出すたびに、私のトラウマを刺激するのか、吐き気や腹痛をともないます。しかし、祓った後、高熱もなく記憶も無事に取り戻せました。それはあの時、恐怖のあまり逃げ出してしまったものですが、今ではとても恥ずかしい記憶になっています。

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