見出し画像

ミス日本2024に思うこと

「ミス日本コンテスト」なるものがある。誰しも一度は聞いたことがあるだろう。
このコンテストは、第二次世界大戦後、衣食住の全てにおいて困窮していた日本に、アメリカの救援公認団体が食料や衣服の支援を行ったことに対して、感謝の意を伝えるために女性親善使節を送ることになり、その使節の選抜のために開催されたのが、その始まりだという。
いや、感謝の意を伝えるもなにも、日本が困窮するような状況に追い込んだのは、他でもないアメリカさんあなたではなかったか…と思わないではないが、今はそれはちょっと横においておく。
そんな経緯で始まったミス日本コンテストは、美の基準や求める人物像、応募資格を以下のように定めている。

美の基準と求める人物像
ミス日本コンテストでは
「日本らしい美しさ」を提唱しています。
内面の美、外見の美、行動の美の3つを磨くことで、自分らしく輝きながら社会をよりよくしていくことができます。
求める人物像
・美しさを磨く意欲がある女性
・成長する意欲がある女性
・社会に貢献する意志のある女性

応募資格
日本国籍を持つ17歳から26歳までの未婚の女性

ミス日本公式サイトより

さて、今年のミス日本に選ばれた椎野カロリーナさんという方が、ウクライナ出身の日本人だということで物議を醸しているらしい。
椎野さんの両親は共にウクライナ人だが、彼女が幼い頃に離婚。母親が日本人男性と再婚したことをきっかけに、彼女が5歳の頃に日本に移住。日本人としての遺伝子的要素はないけれど、以後ずっと日本に住み、日本の教育を受け、昨年、日本国籍を取得したのだという。

美女揃いのファイナリストの中でも、椎野さんは飛び抜けてスタイル抜群で美人であった(と私は思う)。確かに、見た目では日本人には見えないので、何の情報もなくただ彼女の写真と、“ミス日本”に選ばれた、ということだけを聞いて、そこに疑問を抱いてしまうのは仕方のないことだと思う。しかし、彼女の経緯を知り、インタビューでの受け答えの様子を見れば、彼女がコンテストが求める人物像に合致し、グランプリに選ばれたことに、私は納得がいった。

上述した、コンテストにおける美の基準に「日本らしい美しさ」とあるが、それがどういうものなのか、ということは明記されていない。
“日本らしさ”と聞いて、どういうものを想像するだろうか?侘び寂び、もののあわれ、粋、武士道、茶道、能、神道、仏教、桜、マンガ、アニメ、オタク…人それぞれいろんなイメージがあるだろう。
しかし、“日本らしさ”の代表格とも思えるような文字(ひらがなカタカナ漢字)、茶道、仏教、桜でさえ、どれも日本原産ではなく、中国をはじめとした近隣諸国から輸入したものである。

先人たちは、外国から取り入れたものをそのまんま採用するのではなく、自分たちの受け入れやすいように、使いやすいように、感覚に合うように、少しずつその形を変えながら取り入れ、時には従来持っていたものと同化させ、新しいものも自分たちのものとしてきた。そうやって、“新しいもの、外から来たものも受け入れ、変化させ、自分たちのものにする”という性質は、“日本らしさ”のひとつなのではないかと思う。

そういう意味で、ウクライナという異国から日本へやってきて、日本の文化や環境に適応し、日本人としての自我を持っている椎野カロリーナさんは、まさに“日本らしさ”を体現している人ではないだろうか。

また、彼女は日本語以外はほとんど話せないのだという。日本語は、自ら学んで習得したわけではなく、幼稚園の頃に来日し、生活していく中で体得していったらしい。
言葉は、その国の文化や価値観と密接に関わっている。そして私たちは言葉によって思考する。だから、日本語しか話せない彼女は、日本語でしか思考しない(できない)、ということになる。彼女自身、そんな自分を「私は日本人だ」と感じている。

日本国籍を持ち、日本語を唯一の言葉として使い、人生のほとんどを日本社会の中で過ごし、「自分は日本人である」と信じて生きてきた椎野さん。
例え遺伝子的にはウクライナ人であろうと、現在の彼女が日本人であるということには、なにも問題ないのではなかろうか。コンテストの応募資格も、求める人物像の条件も満たしている彼女がミス日本に選ばれたことに、異論を挟む余地はないと、私は感じた。


私がこのニュースを見てそのように感じたのは、今、私がロンドンに住んでいるからだと思う。
日本にずっといたならば、彼女が選ばれたことに違和感を抱く側に、私もいたかもしれない。

ロンドンは世界の中でも群を抜いて多文化共生の街である。街を歩けば様々な肌の色、髪の色を持つ人がいて、ヒジャブを被る人がいて、そのヒジャブにも様々な種類が見られる。
中華街、ユダヤ街、インド街、カリビアン街などがあり、それぞれ独自の街の雰囲気がある。教会の隣にモスクがある。スーパーにはラマダンの時期にはラマダンコーナー、イースターの時期にはイースターコーナー、ディワリ(ヒンズー教の新年)の時期にはディワリコーナーが現れる。

息子の通う現地小学校は、カトリック系の学校であるため、両親共にイギリス人の児童は非常に少ない(いわゆる純粋なイギリス人はカトリックではなく英国国教会信者が多いため)。
本人はイギリスで生まれ英国籍を持ってはいても、親がポーランド、ポルトガル、フランス、アイルランド、ブラジル、フィリピン、アメリカ、イタリア、ジャマイカ、ウクライナ、イラクと世界各国出身だったりする。さらにその両親(児童の祖父母)もそれぞれ違う国出身だったりもするのだ。

また、娘は英国国教会系の現地中学校に通っていて、そこでは小学校よりは両親共にイギリス人の生徒の割合は多そうだけれど、それでもやはり、娘の友人たちのルーツを聞いていると多種多様である。
例えば、母親はイタリア出身、父親はアメリカ出身、本人の生まれはフランスだけれど(出産時に両親がフランスで働いていた)、今はイギリスに住んでいる、という子がいたりする。そうなると、もはやその子はどこ出身の何人といえばよいのかわからない。自分のアイデンティティがどこにあるのか、本人もわからないんじゃないかと思うし、気にしてさえもいないかもしれない。

そんな環境の中にいると、国籍ってなんなんだ、◯◯人ってどうやって決めるんだ、◯◯人らしさってなんなんだ、と疑問を抱くようになった。
今のイギリス王室だって、もともとはドイツにそのルーツを持っている。というか、ヨーロッパの王室はそれぞれに血縁や姻戚関係があり、どこかで繋がっているのだ。

要するに、この国に住む人にとって大切なのは、自分が自分をどう認識しているかであり、国籍や出身国をさほど重要視してはいないのではないかと感じる。
そこに誇りやこだわりを持っている人も、その裏返しとして人種差別をする人もいるようだけれど、少なくとも私や家族が3年間ロンドンで生活してきた中で、国籍や見た目でジャッジされた、差別をされたと感じたことはない(英語がうまく伝わらなくて無碍な対応をされたことはあるけれど)。

それは、私たちが恵まれた人間関係の中にいてラッキーなだけかもしれない。ロンドンではなく地方に行けば、取り巻く環境は大きく異なるだろうし、私たちが接することのない上流階級の人たちの社会の中では、また違った感覚があるのだろうが、それは私たちにはわからない。
ただ、今の自分たちが置かれた環境下においては、国籍、出身地、外見(遺伝的要因)等によって、その人が何人なのかということを判断しないし、あまり気にかけることもない。ただ一個人として接する、というだけのことである。その“一個人として”という感覚を抱くようになったのは、ロンドンに住み始めてからだと思う。

一方で、それまでの人生においては、自分が“日本人”であるということを意識する機会は非常に少なかった。しかし今、日常の中のあらゆる場面で、自分が日本人であるということを、強く感じる。
他者に対しての意識は低くなるのに、自分自身については日本人だという意識が高くなるというこの現象は、一体なんなのか。自我が高まり他我が下がり、そのうち無我に行き着くのだろうか。

ミス日本コンテストからずいぶんと話が逸れてしまったけれど、これをきっかけに、改めていろんなことについて考えている。
日本らしさ、日本人らしさとは何か。自分やこどもたちはそれを有しているのか。自我や他我を形成するものは何か。そんなものは存在すらせず全ては無我なのか。
今は頭の中がこんがらがりすぎて、よくわからなくなっているけれど、思考し続けたいし、こどもたちとも話し合っていきたい。
そんなきっかけをくれた椎野カロリーナさんに感謝。