娘の英語風日本語作文
娘は今年の夏に12歳の誕生日を迎え、この9月から現地の中学校(セカンダリースクール)に進学した。
人見知りで自ら新しいことにはなかなかチャレンジしようとしない慎重な性格の幼児時代、自分を取り巻く全ての環境の急激な変化を経験したバンコク駐在生活、温かな人間関係に恵まれ落ち着いた奈良での日々(本人がどう感じていたかは置いといて)、そしてまもなく3年目を迎えようとしているロンドンでの暮らし。大きな環境の変化を何度も経て、娘は外見も中身もすっかり成長した。いや、実際のところ外見は少しシュッとしたくらいで、さほど変わっていないのだけれど。
ともあれ、そんな娘がイギリスの中学生となり、真新しい制服に身を包んで、毎日意気揚々と玄関を出ていく後ろ姿を見ていると、これまでのいろんなできごとやそれにまつわる感情など、様々なことを思い出す。本当に、大きくなったなぁ。娘について思うところ、書き残しておきたいことは山ほどあるのだけれど、今日はつい最近あった彼女とのおもしろいやりとりについて書こうと思う。
現地校でセカンダリースクール(中学校)に進学した娘だけれど、日本の学校での学年区分では小学生であり、毎週土曜日に通っている日本語補習校では、まだ6年生である。6年生ということで、補習校では年度末つまり卒業に向けて、保護者の間で卒業アルバム制作が始まっている(私は何もしておらず、学級委員さんが進めてくれている。感謝)。そしてアルバムに掲載するための作文を、各自の好きなテーマで原稿用紙1枚分書いてくるようにとの案内が来た。作文を書くことが嫌いな娘は「え〜…」と嫌そうにしていたが、卒業アルバムに載せるとあっては自分だけ書かないわけにもいかず、渋々取りかかっていた。“将来の夢”や、“補習校での思い出”と言われても、いまいちピンと来ない(これといった夢も思い出もない)娘が作文のテーマに選んだのは“私の好きなこと”だった。自分で決めたテーマだったからか、意外とすんなりと書き終えた。普段なら絶対に私に作文を見せようとしない娘だけれど、私が「一応お母さんが読んでおかしいところがないか確認しようか」と提案すると、素直に「お願い」と応えた。さすがの娘も、今回の作文は卒業アルバムに掲載されてたくさんの人の目に触れること、ずっと後に残ることを気にして、変な文章は残したくないと思ったのだろう。
さぁ、いざ娘の書いた作文を読んでみると…やはり漢字の書き間違いがいくつかあった。補習校でひと通り漢字は習うものの、それを書く機会が圧倒的に少ないため、似たような漢字(持と待など)がこんがらがっていた。まぁそれはある程度予想していたことだった。しかし、それ以上に気になることがあった。娘の書いた文章に何かひっかかるというか、日本語自体が間違っているわけではないのに、読んでいてかなりの違和感を覚えたのだ。その違和感の正体がすぐにはわからなかったけれど、2、3回読み返してみて、ようやくわかった。
書いている言語は日本語であるにも関わらず、非常に英語的な言い回しだったのだ。例えば、ほぼ全ての文章に「私は…私が…私の…」というフレーズが入っており、どんだけ自己主張するんや!とツッコみたくなってしまうほどだった。しかし、英語だと全ての文章には必ず主語が必要となるし、誰のものか、誰のための行為なのかを明確にする必要があるので、その英語的発想を元に、娘は日本語の文章でも同じように書いたのだ。また、何かを説明する文章では、まず結論を書き、その後にその理由を書いていた。もちろん日本語でもそのように書く場合もあるけれど、娘の文章はやたらと説明文くさかったのだ。今回の作文のテーマは“私の好きなこと”なのだから、説明文風に書くのはそぐわない。理由をいくつか並べてから結論を書いた方が、より自然な日本語として読めると感じた。どんな文章で、どのように私が修正を提案したか、例文を書いてみる。
なんとなくおわかりいただけただろうか。
私が提案した文章を読んだ娘が「え、ここに主語がないのはなんか気持ち悪い」だとかなんとかいろいろ言うので、私も「まぁ別に日本語としても間違ってるわけじゃないから、あなたが納得いかないなら別に直さんでもええよ」と言うと、「まぁでもそう言われればそうか」と納得したようなしていないような感じで、結局は私の助言を素直に聞き入れて、書き直していた(ちなみに、私の修正案の文章が必ず正しいとか完璧だと思っているわけではもちろんない。あくまで私の感覚で、より自然な文章と感じるものを提案しただけである)。
このように、娘はいつの間にか、英語風の日本語の文章を書くようになっていた。娘は小さい頃から本を読むことが好きで、小学6年生の割には、かなり読書家だと思う。暇さえあれば本を読んでいるし、どんなジャンルの本でも活字であればとりあえず読んでみようとするし、なにか欲しいものはと尋ねたときの答えはいつも本だ。イギリスの現地校生活にすっかり慣れ、授業についていくのに問題ないレベルの英語を身に着けた今でも、自らの楽しみとして読む本は100%日本語の本である。だから、現地校に通う日本人の中では、割と日本語にたくさん触れて読んでいる方である。そのため、私は娘の日本語力に関してはあまり気にしていなかった(息子については日本語よりも英語優位になってきているのが明らかなので、少し危機感を抱いてはいる)。漢字を書けないことについては、ある程度は仕方がないと思っていたし、私自身、書く機会がめっきり少なくなって、漢字を思い出せないことが多々あるので偉そうに言えない。しかし、あれだけたくさんの文章を読んでいて、日本語をちゃんと理解している(と親である私は感じている)娘でも、自分で考えて文章を書く(アウトプットする)となると、普段の生活の中での使用頻度の高い英語の文章構成になってしまうようだ。
しかし、私はこの出来事を悲観的には捉えていない。むしろ、非常に興味深い発見として受け止めている。改めて、わが子の日本語における課題を知ることができた良い機会であり、これから娘に(もちろん息子にも)どんなことを意識して日本語を伝えていくべきかを考えるためのヒントにもなったと感じている。
よく、「海外駐在したらこどもは帰国子女になって、英語ペラペラのバイリンガルになれていいよね」なんて言われるし、私も自分が“帰国子女”の親という立場に置かれるまではそのように思っていたこともある。しかし現実はそう簡単ではないことを、身をもって痛感している。嫌というほどに…。
確かに現地校に通って1年も経った頃には、こどもたちはそれなりに英語を話せるようになっていた。2年半以上経った今では、学校生活や日常生活においては、話す聞く読む書くの四技能どれにおいても、ほぼ不自由なく英語を使えているようだ。しかし、残念ながら、それと同じように日本語力も向上していくわけではない。家庭内や日本語補習校などでの限られた機会でしか使わない日本語の語彙は、なかなか広がっていかない。日本で小学校教育を受けていない息子にいたっては、初めて出会う言葉が英語でのインプットであるものも少なくない(ex. "宗教"より"religion"という言葉を先に知った)。英語での意味を知っている単語でも、日本語ではなんというかわからない言葉がだんだんと増えてきてしまう。そうならないために、親である私は、こどもたちに必死で日本語(母国語)を使わせよう、覚えさせようと四苦八苦するのである。そんな環境で育つこどもたちには、日本でしか、日本語の中でしか育ってこなかった私には思いもつかないような、日本語に対する疑問や違和感が、日々生じているのである。
海外で暮らす、異なる言語環境で育つということは、私が想像していた以上に複雑で、難解で、そして何より、おもしろい。きっとこれからも、いろんな疑問や違和感が彼らの中に沸き起こってくるだろう。その度に立ち止まり、私も一緒になってそれがなんなのかを考えてみたいと思う。そんなことをしみじみと感じた娘の作文添削だった。卒業アルバムの完成が、今から楽しみだ。