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娘にとっての読書

娘はいつも本を読んでいる。

ただ文字を読んでいるのではなく、本の重みを手のひらに感じ、上から下へ右から左へと文字を目で追い、指先で一枚一枚ページを確かめ、ページをめくる音に耳を澄ませながら、言葉の響き、意味、沸き起こるイメージを無限に膨らませ、言葉の森を歩き、言葉の海を泳いでいる

読書という行為は、彼女にとっては身体活動であり、創造活動なのだ。

娘はあまり運動が好きではないし、クリエイティブなことも好きではない、と思っていたけれど、そうではなかったのだ。いわゆる”普通の“あるいは”一般的な“それとは違う身体活動と創造活動を、彼女なりの方法でずっとやり続けていたのだ。
そう思うと、娘が英語を理解できるようになっても、頑なに英語の本を読もうとしないことを理解できるような気がした。
英語は、日本語とは反対に左から右に、そして上下ではなく横に読む。この正反対の動きが、娘には気持ちが悪いのではないか。
また、英語の本は、わら半紙のような質感のものが多く、ざらっとしている。その感触が好きではないのではないか。そして、嗅覚が人一倍敏感な彼女は、その紙やインクの匂いに対しても、無意識のうちに好き嫌いがあるのかもしれない。
世の中の理もあらかた理解できるようになった年頃から突然異国生活を強いられ、必要に迫られて身に付けざるを得なかった英語と、胎児の頃から聞き慣れ、幼児の頃から読み慣れ、無意識に身体に染み込んでいる日本語とは、想像力の広がりが全く異なるのではないか。彼女にとっての読書が身体活動であるからこそ、身体の使い方が異なる洋書の読書が、彼女にとっての読書が創造活動であるからこそ、言葉の深度が異なる洋書の読書が、彼女のからだとこころには、まだ馴染まないということなのかもしれない。

ピアノとダンスは、娘が自らやりたいと言って始めた習い事である。「ショパンの曲を弾きたい」とか「K-POPアイドルのように踊りたい」とか明確な理由があって始めたわけではなかったけれど(ちなみに、現時点ではどちらにも興味がない)、もしかすると、その根底にあるのは読書だったんじゃないだろうか。
読書によって膨らんだ、彼女の内にある感情やイメージを音にするためのピアノ、イメージや音を体現するためのダンスなんじゃないだろうか。

そしていつか、その音を、その舞を、改めて言葉にするようになるんじゃないだろうか。だって彼女はいつだって、言葉の海を泳ぎ、言葉の森を歩いて来たんだから。どんなときも、言葉を必要とし、言葉とともに生きてきたんだから。

本を読んでいる娘の姿を見ていて、そんな気がした母のひとりごと。娘自身は、読書が創造活動で身体活動だなんて、そんなことは、ただの一度も、ひと言も、言ってはいない。