学校に行っている、行っていない、の見えない壁
息子が保育園の頃から大好きなS君。息子の学年は一クラスしかないので、毎年同じクラスになれる。それでも、席が近くなったり同じ班になることはこれまでなかった。
ようやく同じ班になれたのに、S君はヘルパンギーナでまだ登校できず…泣
今日も給食と消しバト(じょぎバト)だけを楽しみに息子は登校。
一年前、息子が学校に行けなくなったとき、S君はお母さんと弟と一緒にうちに遊びに来てくれた。
たった一か月、学校で会わなかっただけで二人は会話もままならず…
息子はS君の弟とはこれまで通り遊べたけど、S君とは全然。
私が泣けた。
みんなで一緒にカルタをした。
二人はもどかしそうに、親の私たちを通してやり取りした。
学校に無理やり行く必要はないと思う。
それでも、子どもにとって学校という場は世界の中心である。
学校という共通項がなくなることは致命的であることを、この時初めて知った。
一年前の表情を思い出すと、本当に学校に行くのが辛かったんだな…夏休み前のように無理やり行かせ続けていたら、今頃どうなっていたのだろう…とぞっとする。
今の表情はとてもイキイキしている。もちろん、学校が好きになったわけではないけれど、友達と遊ぶこと、やり取りすることに楽しみを見出していることは伝わってくる。
学習の機会だけでなく、人との交流の機会も奪われてしまう不登校。
休憩する時間は必要。十分休憩できたら、子どもは自分からまた飛び込んでいける。親はほんの少し背中を押してあげるだけ。
そのほんの少し、が親にとってはかなり負担であり、骨の折れる仕事なのだけれど。
普通って何だろ。
息子は今も普通には学校に通えていないことになるのだろう。
それでも、友達と楽しく遊んで、勉強して、給食おいしく食べて、なんだかスッキリした顔で家に帰ってくる。
みんなと同じことができなくても、元気で健康で、それで十分。
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