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世界はグラニュー糖をまぶしたように

熱を出してまる二日間寝込んだ。
熱を出すのは、かなり好きな方だ。第一に、熱が出ているときには体があるべき場所にあるように感じやすい。わたしは普段、体の各器官があるべき場所にあるように感じることができない。もう一つは、熱が下がった後に世界が皮一枚剥がしたように美しく見えるからだ。

そんなわけで、一年に一度くらいは38.5以上の熱を出すように心がけている。この秋冬は風邪ひとつひいていなかったので、やや気になっていたのだけれど、きちんと熱が出てよかった。

発熱に先立って、節々の痛みがきた。
書斎のPCに向かっている時間が多かったせいか、と思っていたら、それは熱の前触れだったのだ。熱が下がっても、節々の痛みは少し残っている。体はあたらしく作られたように新鮮な感じがして、それでもやや痛いのだった。この感じはわりあい好きだ。3日ぶりのまともな朝ごはんを作りながら、思い出したのはヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』だった。

以前、「100分de名著パンデミック」の回で、小川公代さんが『ダロウェイ夫人』のことをパンデミック小説として取り上げていて、なるほど、と思ったのだった。小説の冒頭、クラリッサ・ダロウェイがパーティの花を買うために街を歩いている。彼女は病気から回復したばかりだ。この病気とは、当時大流行して多数の死者を出したスペイン風邪だった。クラリッサの体はきっと今のわたしのこの感じと同じだっただろうと思いながら、フライパンに卵を割り入れた。こんな感じなのに、パーティをするなんてすごくおっくうだったにちがいない。あの光が飛び飛びするような描写の断片の連なりの様子は、ウルフについて言われる「意識の流れ」と説明されるだろうけれど、実際のクラリッサの知覚した世界のありようの忠実な描写だったとだろうなと思う。


きのう布団の中で『ダロウェイ夫人』を読むべきだったかもしれないな、と思う。いや、それよりも『病むことについて』の方がふさわしかったかもしれない。あるいは、正岡子規の『仰臥漫録』がぴったりだったかもしれない。フライパンに蓋をして、味噌汁のねぎを刻みながらまだそんなことを考える。


布団から手を出すと寒い。それから、本は重い。それでも枕の横にタワーのように本を積み上げて、本を読む、音楽を聴く、ラジオを聴くを繰り返して二日間を過ごしたのだった。
トイレとお風呂以外はずっと横になっていたから、布団はわたしと同化して、まるで皮膚の一部ようになっていた。やわらかくくったりして、なまあたたかい。シーツもカバーも引き剥がして、洗濯機に入れる。布団も枕もみな庭に干した。

裏庭の柚子の木の根元に、犬が四肢を投げ出して口をうすくひらいて横たわっている。まるで撃たれたようだ。デッキからそっと下りて行って、日差しを浴びた横腹に指をさし入れる。犬は気がついて、それでもまぶしくて、まだ眠くてほとんど開かない目のまま、顔をこちらに向ける。足を持ち上げて、もっと腹を見せる。「鷹揚」という言葉がこんなにぴったりした様子をほかでは見たことがない。犬の毛はみっちりしていて、撫でると日向と土ぼこりとけものの匂いがした。

立ち上がると、すこし遅れて犬も立ち上がる。伸びをしてから、ゆさりと尻尾を三度振った。
伸びをすると、黒いセーターに黒いズボンのわたしの全身に日差しがまんべんなく当たる。世界はまるでグラニュー糖をまぶしたようにきらきら光っていて、寝込んでいた二日のうちに全部あたらしくなったみたいだった。
グラニュー糖は、わたしの頭へ顔へ、肩へ、腕へ、胸へ、お腹へ降ってくる。

寝室へ戻ると、ベッドの足元のかばん置き場にしているスツールの上に3日前のかばんがそのまま置かれている。
黒い革のショルダーバッグは、大きく口を開けて何かを待っているようにも見える。3日前にこのかばんを下げて出かけたのに、それはもう前世紀のことのようだ。
かばんの留め具をぱちんととめて、クラリッサはいったいどんなかばんを持って出かけたのかな、と思う。かばんの中には何が入っていただろう。わたしのかばんの中には、お財布とポーチ、ハンカチのほかには、三日前にスーパーで買って取り出し忘れたままの豆大福が一つ入っていた。なんとなくそれを取り出さないまま、まだ置いている。

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