齋藤美衣
ある日、突然世の中の基準がダンスになってしまったら。 誰が優れている、何が正しい、世の中の基準は本当に正しいものなのか。 基準が変わったことで翻弄される人々を描くことで、社会の在り方をあらためて問う小説。
19歳だった。 わたしは人に逢うために、夜道を歩いていた。 冬のことだった。 風は冷たく、手袋の中の指先は冷えていた。 だがそんなことは少しも気にならなかった。 わたしはその人のことだけを考えていたのだ。 足は、わたしよりずっと前へ前へと進む。 からだより気持ちはもっと早く進んでいる。 その日、その人と逢ってからその後がどうだったのかをちっとも憶えていない。 後年、その人はわたしの夫になった。 わたしはその人がわたしの住む場所に毎日帰ってくることを、ときおり不思議な気
わたしはとても疲れている。 とても疲れていて、かなしくなるくらい疲れている。 だから今朝もベッドからなかなか起き上がれなかった。 こういうときわたしは、自分が焦げついた目玉焼きになった気持ちがする。 一生けんめい起きあがろうとしても、体ががっちり布団に焦げついてしまっているようだ。 でも、誰もどうにかしてくれるわけではないから、なんとか起き上がる。 昨日の残りのチゲに、冷凍うどんと卵を入れて、火にかける。 その間に着替えて、顔を洗う。 こんなことすら、すごく大変で、わたし
母は正しくつよい人だった。 結婚してすぐに脱サラして会社を始めた父と一緒に仕事をし、二人で自宅の一角で始めたその事業を毎年黒字を出す大きな会社に育てた。 わたしたち三人の子どもをとても愛してくれた。 いつも休みなく働き、リベラルでどんな困難にも負けなかった。 母がわたしに望んだのは、そんな自分と同じ正しさとつよさだった。 「美衣はつよい子だ」と言い、「つよくなってほしい」とことあるごとに口にした。 わたしはつよい子である自信がなく、いつでも母の求めるつよさに自分が至
夕方の下り列車に子どもの金切り声が響いている。 ノイズキャンセリングして音楽をかけているわたしの耳にまで、高い叫び声と泣き声はどうしたって届いてしまう。 どうしたんだろう、と顔を上げて向かいのシートを見る。 そうしていたのはわたしだけではなくて、手の中のスマフォに目を落としていた若い女性も、イヤフォンを耳につけて目をつむっていた中年男性も、新聞を広げて読んでいた初老の男性もその声の元を見ている。 青いシートに二人の子どもと一人の女性。 声の元は、この二人の子どもだった。
記憶というものは不思議で、ふいに今と関係のない記憶が思考にさしはさまれたり、突然に違う記憶に接続されたりする。 記憶が生きているのは、いつも五感と思考のなかだ。 手が何か仕事をしているとき、その手と繋がるはずの脳は今行っているのとは違う世界にたゆたっていることがある。 夜、自分の下着と夫のシャツを手洗いする。 肌に触れるところには石鹸をつけてていねいにこすり、そのあとは押し洗いして、そののちに濯ぐ。 水はいつでも右回りに排水口に吸い込まれ、流れてゆく。 わたしはそのと
起きてすぐに行った台所の乾いたステンレスのシンクには、曇ったグラスが4つ置かれていた。 そのほかにはガラスの麦茶のポット。空になってこれも流しに置かれている。 そして向こうの食卓には、半分だけ麦茶が残されたグラスが一つ。 テーブルの木肌には、何かをこぼしたあとが手のひら大に暗い跡を残している。 わたしは白いエプロンの紐をきりりと胴に結ぶ。 リネンのパリッとした手触りが気持ちよい。 その手触りにすこしだけ励まされて、わたしはテーブルのグラスを持ってきて、5つのグラスと麦茶の
うそ泣きがができない。 たぶん原因はふたつで、ひとつはほんとうに悲しくないのにうまく涙を出すことができないから、もう一つは「うそはいけません」と子どものころに言われて、そのまま「そうか」と思っているから。 中学のとき、さっちゃんという同級生がいた。 さっちゃんは色白でまっすぐな髪をいつも二つに分けて結んでいた。 わたしは色黒で癖っ毛で毛量も多かったから、さっちゃんのような髪型にしてしまうと、ホウキのような毛束が顔の両側に鎮座することになってしまうのでできなかった。 さ
昼のことである。 魚屋の店先にわたしはいた。 そこそこに店は混んでいて、三人いる魚屋のおじさんはそれぞれに水で濡れた手を忙しく動かしている、 切り身や刺身や丸の魚を新聞紙でくるんで、流れるようにそれをビニル袋に入れて釣り銭を渡す。 わたしはこういう時に、相手の動作の切れ間にうまく入り込むことが不得意だ。 そういえば、大縄跳びも苦手なのだった。 ちょうどよいタイミングを図れなくて、早すぎるか遅すぎるかしてばかりだった。 わたしは鯵か鯖かで迷っていた。 今日はどちらにせよ塩焼
ときおり自分が送らなかった人生について、思うことがある。 わたしが25世紀に生まれていたら、 わたしが男に生まれていたら、 わたしがアフリカに生まれていたら、 わたしが短歌を作っていなかったら、 わたしが成人する前に死んでいたら、 役にもたたないそんなことを思いながら、川沿いを歩く。 雨の降る日であった。 傘をさしていても、雨はうすい長袖に包まれたわたしの腕や、濡れないように前に抱えているバックパックの表面を、細かな水の粒で濡らす。 川沿いの道をゆく。 ひと月も前にはそ
変化は毎日すこしずつであるのに、ぼんやりしている間にずいぶんと変化しているものである。 冬だ、とおもっているうちにそこにわずかに春が混じった。 春の気配、とおもっていると、みるみる春になってしまう。 もはやはつなつではないか、とおもうとつばめなんかが飛んでいたりする。 冬のぎゅっとした気候から、春になり夏がきざすころ、世界にはずいぶんと隙間が多いようだ。 あちらこちらに開いているところがあって、そこをつばめは自由に出たり入ったりしているように見える。 わたしもきっとあの
5時に目覚ましが鳴って、たんすの上にあるそれを止めるためにベッドを出た。 それからいけない、とおもいながら再びベッドに入る。 ベッドはなまあたたかくて、やわらかい。 誰かが甘やかしてくれているように、ぬるくわたしを包む。 でもそうしているわけにいかないから、ぱっと起き上がる。 草いろのコットンセーターとうすいグレイのパンツ、白い下着一式を引き出しから的確に取り出して、洗面所に行った。 うがいをして、着替えて、それから顔を洗う。 お湯を沸かして、お米を研ぐ。 食洗機と洗い
逃げてばかりの人生だった。 人が努力したり、目標に向かうなかでわたしは何事からも逃げていた。 小学生のときは忘れものが多くて、学校についてから忘れてきた体操服や教科書を何とか隣のクラスから借りることばかりしていた。 かんじんの忘れものをしない、ということがどうしてもできなかった。 忘れものはいまも多い。 その都度、出先でどうにかするという方式は、子どものころからちっとも変わっていない。 体育がきらいだった。 体育がきらいなあまり、あらゆるスポーツ、体操服、体育教師、体育館
四月はあたらしい感じの人が街にあふれている。 その人が、いったいどこからあたらしい感じを出しているのか毎年ふしぎに思っている。 電車に乗って出かけた。 わたしの前には中学生らしき女の子が6、7人寄り集まっている。 みな紺のジャンバースカートに、ベージュのブラウスを着ている。 足元は茶色の揃いのローファーで、これも揃いの白い靴下である。 少女たちはさざめくようにわらったり、ちいさな声で話したりする。 どの少女もとてもあたらしい感じを出している。 スカートから伸びた脛は、
春に対していまひとつ積極的になれなかった。 わたしはうたぐりぶかいたちなので、みんながよいというものをいちいち疑う。 しかも人々はよくよく考えもせずに、さまざまなものをよいと言う。 春はいいねえ、桜が咲いてきれいだねえ。 あたたかくなっていい季節だねえ。 春はあたらしい希望の季節だねえ。 そんな言葉が飛び交う。 春は無防備すぎやしないか、と思う。 満開の桜なんて、一切の思考を放棄しているように見えてくる。 わたしは入学式も、花見も、春物のかいものも、おしなべて苦手なのだ
ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』にこんな場面がある。 「とっさに衝動を抑えきれなくなったアシマは、その靴に足を入れてみた。持ち主の汗ばんだ感触が残っていて、それが自分の汗と混ざるような気がしたものだから、心臓が全速力で打ちはじめた。いままでのアシマにしてみれば、これはもう男性経験というに近い。革靴はしわがついて、重くて、生暖かかった」 (ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』) 足の大きさは何十センチも違うわけではないのに、少し大きな靴に足を入れるとどうしてあんなにすっ
お化粧がずっとできなかった。 まず、どうしてするのかがよく分からなかった。 そして成人式で初めて他人に施されたお化粧は、たいそう気持ちの悪いものだった。 べったりしたものが顔の表面全体を覆って、息というものがぜんぜんできない。 世の中の女の人は、こんな苦痛に耐えているのかとおどろいたものだった。 お化粧というものが何のために必要で、いつからするべきかを誰も教えてくれなかった。 それなのに、みんなどの時間の隙間にそんなことを覚えたのか、大学生にもなるとお化粧をしている人がち