『さよなら絵梨』 カメラ、あるいは鏡
いやー、参った。参りました。
ルックバックと通底したテーマ(フィクションを通じた誰かとの関係性の再解釈)が下敷きにありながら、また違う質感の傑作がこんな短期間で出てくるなんて。。。
正直色んなオマージュやリファレンスを全然拾えていないので、この作品をきちんと咀嚼できている自信は全くないですけど、個人的には前々から藤本タツキ作品に感じていた冷たさ(冷酷という意味ではなく質感として)の解像度が上がった気がしました。
恐らくこれは人物の存在余地の話であり、誰某は〇〇な人だったという語りが取りこぼす余白について、あるいは✕✕な人である可能性についての物語かと。
誰かを失う瞬間にフォーカスされいてるのは、誰かについて評定する機会がその人を失った(より正確にはカメラが映さなくなった)時に必ずといっていいほど発生するからでしょう。その時点の前後で明らかに世界は大きく変貌するのであり、その差異を死別という瞬間に凝縮して生まれるエネルギーがあの書き割りじみた爆発なのだとすれば。
多様される定点カメラの細かいカット割は時間を引き伸ばしてシーンの重みを増すと同時に、カメラが何を映すかという選択(厳密には選択ですらないけど)の重みを訴えてきます。
何より主人公は編集による再解釈(意味づけ)に没頭します。あれがどういう動機なのかはわかりませんが、自分の世界はこうでなくてはならないという恣意的な改竄に躍起になっていたというよりは、そのことについて考えずにはいられなかったということではないかという気がします。
世界は自分の好きなように解釈してしまえば良いのだ、などという短絡的な思考ではないはず。望むと望まざるとにかかわらず、私たちは常にそうして反芻しながら生きていかざるをえない。
けれど、それでは答えは出ない。果てがない。
どうすれば円環を閉じることができるのか。
爆発です。
再解釈(編集)の終わりのなさだけでなく、吸血鬼の生の繰り返しに潜む終わりのなさ、劇中劇という入れ子構造の終わりのなさ。どこまで虚構でどこから現実なのかという問い自体が無効化される、カメラ(もしくはコマでもいいけど)の彼此さえも有耶無耶にする構造。
その虚実の円環に打つ終止符があの爆発であったことに、フィクションとしての様式美以上の個人的な宣言を読み取るのはあんまり納得感がないんですよね。そうでもしなけりゃ終わりようがないという開き直りか、せいぜい「私はそういう方が好きだよ」という独り言くらいにしか思えないんですけど。ルックバックに引きずられ過ぎかな。
藤本タツキ作品を読んでいると可能性や余白はてんこもりですけど、そこから選び取る行為はあんまり重視されてない気がします。私が感じる冷たさはそこに由来していると思うのです。ひたすら冷徹なカメラであらんとするというか。読者のリテラシーに委ねる姿勢という意味では、カメラというより鏡なのかな。
では鏡であらんとすること自体は冷徹か?というとそうではなく、もし作者がそうあろうと決めたのなら、その決意の微温を信じたいと思う自分がいます。
まあ、その微温すら、鏡像であることは否定しきれないんですけどね。。。
ルックバックに続いて本作も心に深く刺さりました。
次はどんなお話を見せてくれるんだろう。
楽しみです。