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暦
20210123
1/21をすぎて、明らかに体と心が上向きになった。活動的になったというか。
手先があたたかくなった。
ここ2週間くらい、PCワーク中すぐに手先が冷えるのが気になっていた。
いやあPC作業ホント向いてないのかねと思いながら、体揺らしたり足湯したりと、騙し騙しやっていたのだけど、昨日は何事もなく熱を保ったまま作業ができた。
夕方の瞑想もやる気に満ちてる。
朝昼夕と、瞑想の時間を3ターン取るようにしているのだけど、このところ夕方のターンになんだか身が入らなかった。時間は確保しても、背中がシャキッとしない。
というか、瞑想がってよりも、夕方になると、色々ダラ〜んとしてしまうことが多かった。もう休みましょうよって具合に、体がオフモードに入る。
それでまあ、低空飛行なりのペースで、えっちらおっちらやっていた。
それがどうです。よしやったるぜと、読書もはかどる。
インプットもアウトプットも流れて、風が吹いてる。
どうやら1/20あたりに、暦上での大寒ってやつがあったんだそうな。それで折り返して立春にむかう。
その影響なのかもしれない、と勝手に思う。
昨日書いた冬の身の振り方もそうなのだけど、はじめて暦ってモノの力を見せつけられている気がする。
暦、自然とむきあってきた人たちの時間感覚についての産物ってところなのだろうか。よくわからない。
自然に対して、こちらの意志ではどうにもならない、あちらから有無を言わさずやってくるモノとしての自然に対して、振り回されるもんかってスタンスもある。自分の中でそれは確実にある。
でもそういう頑な姿勢だけでやっていけないんだろうなってことへの実感が大きいのが、今の我が身だなとも思う。
屈強さ、堅固さよりも、しなやかであろうとすること。
よりも、っていうのもイヤだから、その頑さも包み込むしなやかさとでもいうか。
暦学んでみると思ったりして、学べばいいのだけど、それを型として取り込み固辞することも、頑さに通じてしまう。
学びを信頼にたる仮説として、心身のうえで実験・実践する。実践の最中に、新たな学び(=自然・外部・あちらのモノ)がやってきて、次の仮説が生まれる。
しなやかな生は、壮大であり、かつ、ごくごくささやかな、研究所としてある。
しなやかであること、学びを迎え入れられるように、休む。
...と、書いて、いや違うのか、となる。
休むからしなやかでいられるのか、しなやかでいるから休めるのか。
このあたりを、悩んで、直感で動けないあたり、まだまだしなやかではない。