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内省と内観と瞑想
20220208
昔「内観は瞑想ですか?」ときかれたことがあった。そのときは、そうですね、となんとなく答えた。
今思えば「場合による」が適当な答えだったのかもしれないとふと思う。
たぶんその時投げかけられた内観って言葉は、内省、内面を観察することくらいの意味だったんだと思う。
その内観/内省が、意識の変容を、凝り固まってしまった思い込みを解きほぐすことをうながすのかどうか。そこが内観が瞑想たりうるかのポイントなのではなかろうか。
内面の観察ってとき、そこにはすでに切り分けられた自己がある。それを見ようとしてる。切り分けるための型が先行してある。
それまでの人生や環境、生活のパターンが型をつくる。モノゴトはこうだ!という見方をつくる。その型によって、全体性が加工/分節される。
その結果、単なる内省では、全体性としての自己(=身体)ではなく、加工済みの、さまざまな属性としての自己を見つめることになる。
瞑想としての内観(観察瞑想など)が、そのつどの状態に気づき、型という型を一旦キャンセルして、全体性そのものに戻るための時間を確保することだとしたら、(ここでの)内省としての内観はある意味で真逆になる。
内省としての内観では、自己の属性(=思い込み)を、強化することはあれどキャンセルすることはない。どこまでいっても、すでに手にしてしまっている型はそのままとなる。新たな見方、新たな身体は迎え入れることができない。
内観としての瞑想は、ある意味で痛みを伴うモノだろう(瞑想、痛いとかないよ)。それはすでに身につけてしまっている型をバラバラに溶解させていくことでもあるから。そこには必ず、自己否定や、自己への疑いがある。ポシディブシンキングや自己肯定感に痛みはない。というより、本当はズキズキしてしょうがない痛みを無視するために、ていのいい言葉で自己を覆う。
「ありのままでいい」という言葉は、存在そのもの、全体性としての自己を受容するためにはとてもいい言葉なのだと思う。
その一方で、なにがしかの苦しみを抱えているにも関わらず「僕は/私は今のままで完璧!」と、肯定すること、ポジティブであることそのものに執着させてしまうことの罪は重い。
この身に宿る命をいじめることはあってはならない。最優先事項は自分の身体と向き合うことだ。
それと同時に適度な自己批判はあった方がいいと思う。「僕は/私はまだまだこんなものじゃない」と静かに淡々と身体を駆動できる。
内観/内省なんてことから長々と進んでしまったけれど結論、存分に生きるのに瞑想いいですよ〜という宣伝で落ち着いてしまった。