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それでも、生きていく。

『JR上野駅公園口』柳美里:河出文庫

 なにかと今話題の全米図書賞(初めて聞いた)も受賞した本書。JRの上野駅公園口近くに住むホームレスの男の話。男は福島県の南相馬出身で前東京オリンピック前年に出稼ぎで東京に来たのだということだ。男の回想とともに話は進む。

 まず本書で印象的なのがその「語り」だと思う。一見この男の語りは、まるでズームカメラのように人や風景に接近していき、ときには景色を俯瞰する。公園内を行きかう人々の脈絡ない会話の断片から、上野美術館の薔薇の絵画の描写まで自由に行きかう。物語性ではなくある種の抽象としての断片がホームレスの顔なき男の語りと合っている。その顔なき男の声にならない声を聴くように小説を読む。そして、やがてこの語りの意味を読者は理解する。

 この小説にとって死のイメージは「水」だ。突然、病死した男の息子が亡くなったとき強い雨だった。息子の葬儀前の夜、寝付けず夜の海へ出る。暗闇の水辺に立ち、自分が光に見つけられることはない、と悟る。ずっと暗闇のままだと思う。(その対称として天皇は光だ)長い出稼ぎを引退したあとの妻の死に際にも雨が降っていた。雨は悲しみであり、忘却でもある。やがてその水は、うねりとなって物語の最終へと収斂していく。

 流浪の作家、金子光晴の詩に「この人生のことを僕はなにもおぼえていない それは雨のせいだ。一滴、一滴が僕をねむらせおぼえていなくていいという」という有名なやつがある。男が家を捨て、上京する理由はなんだったんだろうか。男が世捨て人になるその朝も雨だったのだし。ある意味流浪者としての男の抗えない性がそうさせたのだろうか。それともすべてを忘却するためか。流浪の詩人のように。

 この男が象徴しているものはなんだろうか、と考えている。きっとそれは我々日本人が近代化していくなかで犠牲になったものの象徴かもしれない。すこし前に読んだ、石牟礼道子の「苦海浄土」を思い出す。大企業が国の黙認のもとで災害を起こす、その地で生きる水俣の人々の苦悩、その犠牲のもとで今の社会がある。福島の原発事故で我々は何を学んだか…。虚しさが残る。男のような人たちが下支えしたかつてのオリンピック。そして東京2020。なんとしてもオリンピックを開催したい国。復興五輪はいつの間にか「コロナに打ち勝った暁の」ものにすり替えられてはしないか・・・。話が逸れたが、この小説もまた「苦海浄土」の系譜にあると私は思っている。

 終りがあっても、終わらないものがある。寄る辺なき魂に寄り添うこと。コロナ禍のいま、現実にうちのめされつづけながらも、それでも、生きていく人生にこの小説は心に突き刺さる。

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