見出し画像

交わらないセックス~乖離してゆく私~

『アンソーシャル ディスタンス』 金原ひとみ著:新潮社

 本作は文芸誌「新潮」に2019年から21年までに掲載された短編をまとめたものだ。五つの短編のうち、最後の二編のみがタイトル「アンソーシャルディスタンス」を含むコロナ禍の男女を描いている。あとの三編は、突然鬱になった彼氏に耐えられなくなってアルコールに溺れていく女や、年下の彼氏に嫌われないようにと、美容整形をエスカレートしていく話などがある。あまりコロナ禍とは直接関係ない物語がメインだが、どの短編においてもなぜかコロナを感じてしまう。おそらくそれは、どれもがディスコミュニケーション状態の男女を描いているところに、理由があるのではないか。私たちはこのコロナ禍で、否が応でも非身体接触の世界に晒され続けてきた。身体性が奪われるということは、いわばセックスが奪われるということでもあり、つまりそれは人間の生命としての危機でもあるのだ。すべての物語りに過剰なセックスが盛り込まれているが、そういう意味ではセックス衝動は、滑稽なほどに切実ですらある。特にこのコロナ禍においては。この物語に登場する恋人たちは、互いがすれ違い続け、セックスし続けるにもかかわらず、まったく互いに交わることがない。こころも身体さえも交わらないセックスほど虚しいものはない。だから、彼女たちはアルコールに溺れ、孤独に震え、セックスへと逃避する。

 取り分け私が惹かれたのは、「コンスキエンティア」(Conscientia)という短編。化粧品会社に勤める茜音は、言わずと知れたコスメオタク。結婚6年目だが子供はいない。夫とは一年以上セックスレスで関係はすでに冷めきっている。彼女は密かに不倫をしているが、彼氏の奏はメンタルが不安定。別れてくれ、とか、やっぱり茜音がいないと生きていけない、とか言われ散々振り回されている。親友の弟の龍太は若くて健康的。この四角関係のなかで茜音は揺れ動く。タイトルのコンスキエンティアとは、意識と訳される言葉のラテン語だそうだ。話の根底にあるのは、意識についてだ。どこまで我々はそもそも意識で自己を制御できるのか。そしてその意識から自分が乖離していくとき、人はどうなっていくのか。特に恋愛においてそれは顕著に表れる。人間とは不可解で、矛盾に満ちていて、また非合理。でもそこに人間の魅力もあるのかもしれない。龍太は若いがゆえに正義を振りかざし、その言動においても即物的で奥行きがない。不倫相手の奏は会社を辞めて部屋に引きこもる。必死に奏を看病しようとする茜音だが、助けたいと思う自己も実は、依存と相関関係だ。激しい自己への承認欲求は、その裏返しなので関係はなかなか解消出来ない。愛はなくなったと思っていた夫からはおそらく茜音が不倫しているという嫉妬心で、ある日を境に暴力的に毎晩犯され続ける。その一方的な欲望にさえ、男と女のあいだには再度絆が芽生えたりするから、愛はどこまでも不可解。

 コスメオタクの茜音が鏡に向かい化粧していく細やかな描写も、素晴らしい。もともと自己とその意識の乖離については、男よりも女の方が敏感であるのかもしれない。メイクし、そのメイクを落とすたびに私を喪失していく、その刹那性が芸術だとデザイナーの原田が言う言葉が象徴的だ。化粧という行為自体が自己乖離そのものでもあるし、恋愛やセックスの本質もそこにある。同義なのだという事実がとても新鮮に映る。力作だと思う。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?