書を捨てず町へ、自然へ出よう
『余白の春』瀬戸内寂聴 著 岩波現代文庫
ブレイディみかこの『両手にトカレフ』を読んで、金子文子に興味を持ち、本書を手に取った。
さて、『両手にトカレフ』が、金子文子の幼少期から、自殺未遂を起こす少女期をメインに描いているのに対し、寂聴の『余白の春』では、文子の自伝以後の、朴烈との出会いから、栃木刑務所での自死まで。あくまで、大逆罪(正確には大逆予備罪)に問われ、取り調べから裁判までが描かれる。
伊藤野枝を書いた『美は乱調にあり』などと比べると、小説というより、ルポルタージュ的要素が強い印象。
話の中で、著者自身が最初、文子のルーツを探るため幼少期を過ごした山梨の山間、塩山を訊ね、次に朴烈の関係者と文子の墓を訊ねるために韓国へ行く。最後は、栃木の文子が縊死した後、いったん埋葬された刑務所墓地へ、という著者のルポとなっている。
個人的に、『両手にトカレフ』でも、思ったこと。それは、朝鮮へ引き取られた文子が、人生に絶望し川に身を投げ死のうとする有名な場面。淵を覗き、飛び込もうとした瞬間に聞こえた蝉の声。そのとき彼女のなかで世界が反転しこの世の美しさに気づく。
これって、なんなんだろうか。
子どもの頃から、無籍の為学校も行けず、親には見捨てられ、友だちも居ず、というなかで裏山などの自然の中で過ごし、自分を癒す幼少時代が彼女にはあった。その身体を通した自然感があのときの少女を救ったような気がしてならない。
話が逸れるがヘミングウェイの小説に戦争で傷を負った若者が自然へ入って行き癒されていく有名な短編がある。それって今風に言うとマインドフルネスとでも言おうか。
気づき、なのだと思う。世界は自分だけではなく自分の外にもあり、狭い牢獄のような「家」だけじゃなく夏の日差しも、川の輝きも、蝉の声も、青い草いきれも今ここに世界としてあることに気づくこと。バック・トゥ・ザ・ネイチャー。
13歳の文子はその時自分の「外部」をみつけたんだと思う。これは人生をサバイブしていく思想だ。特に若い時は自意識に潰される。文子の思想体系とは、机上じゃなくてあくまでも、自分の体験からのもの。のちに、社会主義や、虚無主義にいたるのも、街角を漂流するように人と出会い、労働の苦さを味わい身につけていったものだ。
なので私は最初、幼少期に自然に生かされ、復活した文子が、獄中という究極の人工的な塀のなかで再び(こんどは本当に)自死したということに、憤りを感じていた。
だが、最終読み進めていくなかで、そうではなかったんじゃないかと思い始めている。
彼女の反逆はすべてが行動であり、自分の意志でなしたもの。だが、恩赦がくだり朴と死ぬことさえ出来ないという事実。その事実に絶望したのだと思う。
そこで文子は魂の生を全うするために、死んだように生きるのではなくて、自分で死を選び取る。それが彼女の人生をかけた思想だったのかもしれない。だから、その死はなぜか自殺でありながら肯定的で潔さを感じてしまう。そんな尊厳死ってあるのか、と驚く。
たかだか、二十数歳で国家とひとり対峙するということ。抗うということはときに大事なことを気づかせてくれる。権力が個人を蹂躙していく怖さは、今のこの時代と地続き。やばいよね、若い人選挙行かなきゃ。
最後で、栃木の刑務所跡の檜の森で鶯の声を筆者は聴く。そのサウンドは文子を生へと気づかせた自然と呼応する。