いつかの言葉 【野口三千三さん】
野口三千三(のぐちみちぞう)さんは「野口体操」を作られた方です。
「野口体操」は「野口整体」と名前が似ているのでよく混同され、私もしばしば質問されるのですが、まったくの別物です。
別物ではありますが、どちらも素晴らしい身体哲学であり、素晴らしいボディワークであり、ともに一生を掛けて学んでいく価値のある、そんなメソッドだと私は思っています。
私たちは、新しいものと出会ったときや新しい感覚を味わったとき、自分の経験から似たような概念を持ちだして、「ああ、これね」と既存の言葉に当てはめて解釈してしまいがちですが、そんなときに本質をつかみ損ねたり、大きな誤解をしてしまう、ということがよく起こります。
心や感情の変化やからだの変化というものは、そんなに簡単に言語化できるものではありません。
簡単に言語化できないものを急いで言語化しようとすれば、それはどうしてもどこかに省略や嘘が入り込んでくることになります。
しかも人間というのはとりあえずでも答えが出ると、それで安心してしまってそれ以上の追求をやめてしまうところがありますから、安易に言葉にしてしまうことは誤解を生み出すだけでなく、それ以上の深い理解を自ら放棄してしまうことにもなりかねません。
ですから、新しい経験や新しい感覚、あるいはあやふやなものや動き続けるものを捉えようとするときには、安易に言葉にせずにそのまま丸ごとの体験を取っておくということが大切なことなのだと思うのです。
子どもを理解しようとするときにも、「この子はこういう子だ」と言葉にして理解していると、ひょっとして似たようなことが起こっているかも知れません。
子どもというのはつねに動き続け、変化し続け、成長し続けるものです。
そのような動き続けるものをどこかの一瞬で切り取って、ある種の止まった状態で「こういうものだ」と言葉にすることは、明確にしやすく便利ではありますが、どこか生きた本質のようなものを置いてけぼりにしてしまいがちです。
それを避けるためにどうしたら良いのだろうと考えたときに、「名詞だからいけないんだ。動詞で捉えたらどうだろう」と思って書いていったのが、拙著「子どものしぐさはメッセージ」の原文である、雑誌クーヨンの連載「子どものしぐさ百考」でした。
言葉というのは、何かを把握するためには確かに非常に便利な道具ではありますが、その便利さの背後には必ず何らかのマイナス面があります。
本来、経験したことが言葉になってゆくということは、それこそ地中に溶け出した鉱物が結晶を作り出すように、非常に時間のかかることなのですから、いろんなことを急いで言葉にしすぎることなく、それ自体が自ら言語化されてゆくのをじっくり待つということも大切なことなのだと思います。
私はその方法を「自ら名乗るまで待つ」と呼んで、日々心がけています。