いつかの言葉【世阿弥】
世阿弥(ぜあみ)といえば、言わずと知れた室町時代の能(猿楽)の大スターですが、彼は後進のために多くの能の伝書を書き残しました。現在でも使われる「初心忘るべからず」とか「秘すれば花」といった言葉も、世阿弥の言葉です。
彼の伝書は、能の稽古について書かれたものですが、そこで説かれていることはあらゆることに通じるとして、現代でもさまざまな芸事や運動の稽古においてよく引用されています。
伝統芸能の世界では、きわめて幼少の頃から稽古をしていくこともあって、伝書の中には小さな子どもにどのように稽古をつけていくかという指南も書かれていて、そういう意味ではある種の育児書、教育書としても読むことができます。
上に取り上げた「なす態の其体に相応する所を以て、成就とするなり」という言葉も子どもに稽古をつけるときの心得で、現代の言葉に言い換えるならば、「その子の今の状態にちょうど相応したところで良しとする」というような意味です。
これはもっともなようでいてなかなかに難しいことで、ともすれば私たち大人は子どもに期待するあまりに、その子の相応を超えたところを求めてしまうことがあります。
世阿弥は、「不相応たるにより、芸風順路に行かず、成人する順路の相応たるべし」とも書いていますが、つまり子どもの時に不相応に完成させすぎると、それはその後の芸の劣化を招いてしまうと言うのです。
子どもは未熟であるのが相応であって、完成しすぎてしまうことは不相応である。だから子どもの時には未熟であるままをもって成就とする、と言うのです。
メダリストの為末大さんが、スポーツ選手の成長についても似たようなことを書いていましたが、若い選手が自身の特性や長所がまだハッキリしないうちに、ある一つの方向性を持って技術を完成させすぎると、どこかで結果が頭打ちになってこれ以上伸びなくなってきたというときに、ひょっとしたら隣の道を進んだ方が先まで行けたかも知れない、ということが何となく見えてしまうことがある。けれども、そこからそちらの道へ進むのは非常に困難なことなのです。
何故なら、その時点でかなりの完成度をもって身に付けた技術をいったん解体して、まだ技術として固まっていない分岐点まで戻って、つまり「下手くそ」に戻って、そこから新しい道を歩き始めなければならない、というのは精神的にも肉体的にも非常に困難であるのです。
下手をしたら、フォームや運動をかき乱すだけに終わってしまって、むしろパフォーマンスを下げるだけになるかも知れないリスキーなことなのです。
「未熟さ」というのは、言い方を変えれば「伸び代」です。
何につれ成長というものは段階を経て行なわれていくもので、ある種の未熟さこそがその後の成長の伸び代を保証してくれるわけですから、子どもの行為の中にある余白やゆらぎや遊びといった、未だ定まらぬところがその後の成長にとっても大事なところなのです。
指導や教育として難しいのは、どこまできちんと型を身に付けながら固めさせ、どこから余白をもってその未熟さを良しとするのか、というその境目の見極めとなりますが、こればっかりは本当に目の前の子どもとの対話によって見極めていくしかありません。
小さければ小さいほど、「とりあえず余白をいっぱい残しておけば良い」というざっくりした指導でも何とかなりますが、子どもも大きくなって思春期を迎える辺りになってくると、固めるところと余白を残すところの按配をどの辺で良しとするのかというのが、なかなか難しくなってきます。
思春期を迎えた子どもというのは、まさに人生の分岐点として、これから自分の「体(たい)」をどのようなカタチへと作りあげていこうかと、その相応というものを探し求める時期であるでしょう。
自身の思春期の頃を思い出せば分かると思いますが、自分が何者であるのかまったく分からず、カタチも定かではなく、周囲の刺激にナイーブに揺れ動く、そんな時期であると思います。
それはいわば、成虫へと姿を変える前のサナギの様子そのままです。
まもなく迎えなければならない外の世界への飛翔の前に、とりあえずの外向きの殻に身を包んで引きこもり、その中では何者でも無いドロドロな状態となって未来のあるべき姿を夢見ながら、いろんなことを試してみているのです。
閉じこもった殻の中で、いろんな自分に変身しているかも知れません。
鍵をかけた自室の中で、いろんな自分に変身しているかも知れません。
まだ何者でも無い自分にとって、いったいどんなカタチが相応であるのか、誰にも見られないところで試してみているのです。
多くの教えが説くところによると「その姿を見てはいけません」。
ですから親といえども、思春期の子どもの部屋をいきなり開けて入っていってはいけないのです。
そこで何者に変身しているか知れません。思いもよらぬ何者かになっていたときに、ビックリして関係がギクシャクしてしまうだけでなく、当の本人がその姿カタチであることの釈明に追われることになってしまいます。
自分が何でこんな姿をしているのか、どんなつもりなのか、何を考えているのか、何をやりたいのか、進路はどうするのか、将来何になりたいのか…。
本人が未だ定まらぬ「態」をなしている最中に、そんなことを言語化せざるを得ない状況へと追い込むことは、ある種の性急に過ぎる早産を促しているとも言えます。
性急な言語化は早産を促し、未熟なカタチや歪なカタチを与えることになってしまい、本来の「態」とそれを現わす「体」とのあいだに、ズレが生じることになってしまいます。
サナギを触ってはいけないとよく言われますが、それは自ずから成るべくカタチを歪ませてしまうからです。刺激を受け言語化されたところから、固化が進み、成形が始まっていくのです。
タマゴの中の雛が今まさにタマゴから孵ろうとして殻を突つく「啐」と、それを察して外側からタマゴの殻を割ってあげようと突いてあげる親鳥の「啄」が、まさに一致する「啐啄の機(そつたくのき)」というものを技術として用いることを、整体の創始者である野口晴哉は「啐啄の技術」と呼びました。
なかなか難しいことですが、そんな機を読んで手を差し伸べることができれば、どれだけ素晴らしいことでしょう。
ただ一つ確実に言えることは、ドロドロのサナギが何者かへとそのカタチを決めてゆくときに、それをしっかりとしたカタチに支えてくれるのは、今までしてきたさまざまな「体験」だということです。
頭に入った「知識」や「言葉」ではなく、からだを通した「体験」です。
サナギにまで育ったあとに、外からいじってどうこうすることはできません。ですがそのときの下支えとしての「体験」をいっぱいさせておいてあげることはできます。
多くの「体験」を繰り返し通してゆくこと。それを「稽古」と言うのです。