引き算の美学
日本文化の様式が語られるときに、「引き算の美学」という言葉で語られることがあります。
これは整体の創始者である野口晴哉の思想が語られるときにも、しばしば用いられる言葉ですが、私たちはより良い物を作ろうとするときに、良い物をアレもコレもとどんどん付け足していく、そんな「足し算」的なやり方をしていきがちです。
ですが、前回の記事(「人を育てる結界術」)で紹介したエピソードにも通じますが、日本文化や日本の美意識というのは、その逆にむしろいろいろな物をどんどん引いていく「引き算」という方法を用いるのです。
そんな「引き算の美学」としてよく引き合いに出されるのが、藤原定家の歌です。
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」
この歌自体は、漁師小屋のほかには何も無い海辺の寂しさを歌った歌ですが、その光景を定家は「花も紅葉も なかりけり」と歌いました。
それによって私たちの心象には、何も無いはずの海辺に突如として花と紅葉が咲き乱れるのです。
定家は何も無いところからさらに引き算をすることによって、花と紅葉を出現させるのです。それはまるで負に負を掛けて正としてしまうような、そんな荒技のようでもあります。
ですが、荒技であるにも関わらず、そこに自身の力はほとんど用いていません。ある意味、攻撃してきた者が自分の勢いだけで吹っ飛んでいってしまう武術の達人技のようです。
その花や紅葉をそこに呼び出すために注ぎ込まれているのは、見る者聞く者の想像力であって、定家が頑張って何も無いところに花を植えたり紅葉を植えたりしているのではないのです。
何も無い空間をあえて「花も紅葉も なかりけり」と詠むことによって、それを聞く者が自ら花と紅葉を探し求め始めてしまう。それがこの「引き算」という方法の凄さです。
日本庭園の様式の一つである「枯山水」などもまさに引き算で、眼前に広がる大きな海を表現するために、水を張るのではなく、むしろ水を抜くことで現わします。
あえて抜いて、そこに仮の物としての岩や砂を置き、岩を島に、砂を波に、見立てることによって、見る者の心により強く呼び起こす。
それによって「見えている三次元世界」に、もう一次元の奥行きを加えようとするのです。
そのような「抜き」と「見立て」という方法によって、日本文化は私たちの感覚できる世界のその奥に、独特な超感覚的世界を構築してきました。
日本文化の見ている世界というのは、感覚世界をつねに薄紙一枚覆われた「仮のモノ」として見立てているんですよね。私たちは「仮暮らし」をしているに過ぎないというわけです。
そこには、物質性よりも精神性を尊ぶ日本文化的な価値観の現われがあります。実際にそのものをそこに持ってきて「見える」ということよりも、そこに無いものを「見る」ことを、鑑賞者に求めるのです。
そこに有る物が見えるのは当然であって、そこに無い物を見ることこそが、粋であって、洒落であって、遊びであって、雅であって、文化であるのだと、まるでそんなことを言わんばかりです。
だから表とか手前とかよりも、裏とか奥とか、そういうところに気合いを入れるようなことをして、五感で捉えられる「仮のモノ」に囚われずにその奥の「真」を見ろと、そんなことを突き付けてくるのです。
そして実際、私たちにとって、「有ること」よりもむしろ「無いこと」によって引き出されるものの方が、より強力に働くことも多々あるのです。
人間というのは、外からやってくるものには反発できますが、自身の中から自ずと生まれてくるものには抗えません。
「花も紅葉も なかりけり」と聞いて咲き乱れる花や紅葉は、誰にも止めることも消し去ることもできないのです。
そのように「引き算」というものは、非常に強力な力でもって人間の力を引き出します。
教育というと、ついつい子どもに何かを教えたり与えたりと、「足し算」的な方法で考えてしまいがちですが、もっと引いたり抜いたり手放したりといった「引き算」的な方法も活用していくことが必要な気がします。
何故なら、人間の「信頼」というものは「足し算」の中では醸成されないような気がするのですよね。
「引き算」によって生まれた余白を埋めるように、人はその心を伸ばしていって、そこに「信頼」というものが育ってくるような気がするのです。
私たちは「慎む」という身振りの意味を見直す必要があるかも知れません。
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