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1970年代の初頭、ナチスの強制収容所を生き延びた女性たちの健康状態を調査するプロジェクトがありました。 強制収容所では、ホロコーストに代表されるような大量殺戮が行なわれていましたから、そんな中を生き延びてきた女性たちは心身に大きな傷を抱えることになり、戦争が終わって収容所から解放された後も、日常生活の中でそのトラウマや後遺症に悩まされる人が大勢いたのです。 プロジェクトメンバーの一人である医療社会学者のアーロン・アントノフスキー博士は、多くの研究者が後遺症に苦しむ人たち
ずいぶん前に知人宅へ遊びに行ったときのこと、その家の五歳になる子どもと一緒に愉しく遊んだことがありました。 二人で家中をかくれんぼしながらコソコソと歩き回ったり、二階の廊下に一緒に寝転がって階段の隙間から見える台所のお母さんの様子をこっそりのぞいて、小声で「ママ、気づいてないね…」なんて内緒話をしたりして。 廊下に寝転がりながら顔を付き合わせて内緒話をしていると、何だかまるですごい秘密を共有しているようで、そんなことはまったく知らずに台所でいつも通りにご飯の支度をしている
1.「型」による教育何かを作ったり練習したりしているときに、それが「多少は人様に見せられるかな」というギリギリの合格ラインを超えたところで、「ようやく形になってきた」などという言葉を口にすることがあります。 それまでは、パッと見ただけでは未だ何物とも呼べない正体不明な覚束ないものだったのが、ようやくその輪郭がハッキリして何某かの気配を感じさせるようになってきたときに、私たちは「形になった」とそう言うのです。 昔から、そのような「形(かたち)」を作り上げるために、「型(か
講座などで、しばしば「感覚遊び」をすることがあります。 現代は頭を使って考えることばかりが多いので、感覚を働かせて感じたり動いたりすることの愉しさと大切さというものをもう一度実感してもらう意味もあって、あまり難しく考えずに「からだで遊ぶ」というところに軸足を置いたワークをやってみるのです。 ただからだを動かしながらその感覚を味わってみることもあれば、いろいろな道具を使って遊んでみることもあるのですが、その中で私が気に入っているものに「木板カルタ」というものがあります。(見
野口整体は「療術」ではなく「体育」というのがその立ち位置なのですが、創始者である野口晴哉(はるちか)は、たびたび「女子の体育」ということを提唱していました。 現代の日本で「体育」あるいは「運動」と言ったときに、多くの方がイメージされるのは「競技体育」のイメージではないかと思います。 「競技体育」というのは、それぞれが持てる体力や技術を出し合って競い合い、その優劣をつけて愉しみ、そして切磋琢磨し合う、そのようなからだを育てようという体育です。 それはある意味「競うからだ」
世阿弥(ぜあみ)といえば、言わずと知れた室町時代の能(猿楽)の大スターですが、彼は後進のために多くの能の伝書を書き残しました。現在でも使われる「初心忘るべからず」とか「秘すれば花」といった言葉も、世阿弥の言葉です。 彼の伝書は、能の稽古について書かれたものですが、そこで説かれていることはあらゆることに通じるとして、現代でもさまざまな芸事や運動の稽古においてよく引用されています。 伝統芸能の世界では、きわめて幼少の頃から稽古をしていくこともあって、伝書の中には小さな子ども
1.敏感で繊細な人「HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)」という言葉をしばしば目にするようになりました。 非常に感受性が高く、さまざまな刺激を敏感に受け止める「とても敏感で繊細な人」のことを差しますが、昔はそういう人は「からだが弱い」というような言い方をされてきました。 周りの刺激を敏感に感じ取るので、何かあるとその影響を強く受けすぎてしまって、その処理が追いつかずにしんどくなったり、動けなくなってしまったり、場合によっては体調を崩して寝込んでしまったりするからで
「共感」と「反感」という2つのベクトルは、私たちの営みのあらゆるところで働いていて、そのどちらも非常に大切な働きを担っています。 たとえば私たちが何かを「食べる」ということは、食べ物を吸収して自分自身に取り込んでいるのですから、それは食べ物に「共感」していると言えます。 たいして私たちが何かを「考える」ということは、私たちの中にある漠然とした概念を、言葉として吐き出し、外側から客観的に捉え直すことですから、それは「反感」の働きと言えます。 シュタイナーの考えでは、幼少時
今月の愉気の会は「穴追い」の実習を行ないました。(2016年11月のこと) 穴追いというのは整体の手当ての一つで、からだの皮膚の上の穴のようなものをひたすら追いかけて愉気していくという不思議な技法です。 「皮膚の上の穴」というのも何だかよく分からないですし、「穴が動く」ということもよく分かりませんから、考え出すと頭が混乱してきてしまうかも知れませんが、今回の参加者の方たちはみなさん素質があるのか、あまり深く考えずに(笑)実習に入っていただけたので、比較的スムーズに実習を行
1.手考足思昭和の初めに、ありふれた日用品の中に「用の美」を見出し、その価値を世に問うた「民藝運動」という活動がありました。 その民藝運動の中心となった人物の一人に、河井寛次郎という人がいるのですが、その人の言葉に「手考足思」というものがあります。 「手で考え、足で思う」とは、まさにものづくりを行なっている作家ならではという言葉ですが、シュタイナーもまた「手で判断し、足で帰結する」と似たような言葉を残しています。 一般的には、人間は「頭で考える」と思われていますが、思考
街の植え込みをふと見たら、彼岸花たちが一斉ににょきにょきと地面から顔を出し始めていました。 私は彼岸花を見ると、まるで妖精のような不思議な生態と、その名前と佇まいに微量に漂わせる彼岸の雰囲気に、遠い思い出のような何とも言えない不思議な気分になるのですが、みなさんはどうでしょうかね? 東京は日中まだ暑さの残る日もありますが、彼岸花や百日紅といった花たちが咲き始めるのを見ると、そんな中でも自然は着々と次の季節の準備をしているなぁと改めて気づかされます。 そうやって徐々に秋の
1.モノではなく流れを観る子ども政策で有名な明石市の元市長の泉房穂さんが、2022年に「子ども家庭庁」の設置に伴って参議院内閣委員会に参考人として呼ばれた際に、「お金がない時こそ、子どもにお金を使う」というような発言をしました。 これは分かるようで分からない、なかなか理解しづらいロジックかも知れませんが、非常に大切な考え方だと思います。 整体の創始者の野口晴哉は、自宅の井戸の水が涸れかけたとき、家族で集まって「しばらく水を節約しよう」と家族会議をしていたら、「そんなこと
1.ボク、そのお金はどうしたの?私たちがこの社会を生きていくときに、お金というものを抜きにして語ることはできません。 となると、子どもの教育ということを考えるときにも、「子どもがお金とどのように出会っていくのか」ということは、非常に大事な教育のテーマであると思うのです。 いったい子どもはお金とどのように出会っていくのが良いのでしょう? たとえば経済を語る言葉の中で「消費者」という言葉をよく耳にしますが、はたして消費者とはいったい何なんでしょうかね? お店に何かを買い
子育てというのは難しいもので、良い人が良い親になるとは限らず、良い親が良い子育てをするとも限りません。 まわりも認める良い親であったとしても、その子どもが問題を抱えて荒れてしまうこともあるでしょうし、まわりが思わず眉をひそめてしまうような親であっても、その子どもが優しく利発的な子に育つこともあるでしょう。 もちろんその要因にはさまざまなものが絡んでいて、一概にこれが理由と言えるようなものではありませんが、一つ言えることは人間あるいは人間関係というものは、必ずバランスを取ろ