ごっこ遊びに学ぶ
ずいぶん前に知人宅へ遊びに行ったときのこと、その家の五歳になる子どもと一緒に愉しく遊んだことがありました。
二人で家中をかくれんぼしながらコソコソと歩き回ったり、二階の廊下に一緒に寝転がって階段の隙間から見える台所のお母さんの様子をこっそりのぞいて、小声で「ママ、気づいてないね…」なんて内緒話をしたりして。
廊下に寝転がりながら顔を付き合わせて内緒話をしていると、何だかまるですごい秘密を共有しているようで、そんなことはまったく知らずに台所でいつも通りにご飯の支度をしているお母さんを見ていると、その呑気な様子が何だかだんだん可笑しくなってくる。
それでお互い顔を見合わせてはプーッと吹き出し、必死に笑いをこらえていたら、いつのまにかすぐ近くにお母さんがいて、「…二人で何やってるの?」なんて怪訝な顔をして訊くものだから、「見つかった!逃げろー!」と言って逃げ回ったりして。
何でもないことでしたが、ホントに愉しいひとときでした。いま思い出しても思わず笑顔がこぼれてしまうほどです。そのときたぶん私は完全に子どもになっていたのだと思います。
子どもと遊んでいるとき、大人はしばしば「ちゃんとやって!」と子どもに怒られてしまうことがあります。そのときの私なら「ちゃんと遊んだね」とその子に認めてもらえるのではないかと思うのですが、大人になってから「ちゃんと遊ぶ」というのは、なかなか難しいものです。
子どもと遊んでいても、どこか冷静のまま「適当に付き合ってあげている」という気持ちでその場にいることは、大人であればしばしばあることだと思います。
でも子どもはそういう大人の身振りを見抜いていて、「ちゃんとやって!」と怒るのです。砂場のおままごとで出される「砂のご飯」だって、適当にうわの空で食べたことにしていると怒られるのです。
子どもというものはいつだって「いま」に本気です。リアルも虚構もどちらも本気で、本気で「ごっこ」をするのです。
私は以前より「ごっこ遊びには人間の本質が現われているなぁ」と、そんなことを感じています。子どもは「ごっこ遊び」のファンタジーに本気で興じながら、でもそれが作り事でもあることも頭の片隅で分かっています。
だから砂場で出される「砂のご飯」だって、「はいどうぞ」と手渡されたら「いただきます」と言ってちゃんと食べる真似をしないと怒られるのに、もしその砂を本当に口の中に入れて食べ始めたら、「食べちゃダメだよ!それは砂だよ!」とやっぱり怒られるのです。
そこでは空想と現実がかさなりあいながら共存しています。子どもはその「かさね」の紙一重の境界を行きつ戻りつしながら、その両方の世界を本気で愉しく味わっているのです。
「ごっこ遊び」の世界では、子どもは自分ではない何かに成りきって、ともに遊ぶ他者と夢をかさねあいながら、その場にまったく新しい世界を創り上げていきます。
子どもは、他者と協働しながら目には見えない新しい世界を創り上げ、その世界を共有し、その世界の中を本気で遊んでいるのです。
ときに、急に夕立が降ってきたり、友だちがママに呼ばれて帰っちゃったり、知らないおじさんに「コラ!」なんて怒られたりと、たびたび不意打ちのように訪れる現実界からの横やりも、「じゃあ、こうしようぜ」と上手く取り込みながら、その都度新たに世界を立ち上げていく、タフな創造力がそこでは発揮されています。
それは、他者とともに一つの世界を創り上げ、その立ち現れてくる世界を共有して支え合うことで連帯感を醸成し共同体を維持してゆくという、人類が連綿と続けてきた営みの、まさに雛形のようにも思えます。
私たちの日々の営みを模倣して再現しようとする「ごっこ遊び」は、私たちが共同体を存続させていくために必要な資質を育む苗床であり、ある種の「型」であるとも言えるでしょう。
私たちが生きている社会は、私たちみんなが連帯して創り上げている一つの世界です。みんなの対話や共感や協働や見做しによって成り立っている、一つの大きな「ごっこ」の世界です。
それは、私たちみんなが連帯して作り守っていかなければ、たちまち砂上の楼閣のように崩れ落ちてしまいかねない、覚束ない世界なのです。
空想も現実もどちらも本気で遊びながら、その場の新しい世界をその都度作り上げていき、その場の新しいメンバーもその都度仲間に入れていく、そんな子どもたちの身振りに、私たちは学ぶものがあるような気がします。