満洲国とイーハトーブ
同じ日蓮宗系の国柱会の会員であった石原莞爾と宮沢賢治は、それぞれ、史実に満州国を、文芸でイーハトーブと呼ばれる理想郷を作り上げた。
宗教的な背景を共有していたとことから、思想において共通点が多いとされる。
それぞれ異なる分野で活躍した2人が、共通の宗教的背景と思想的影響を受けており、その影響は彼らの活動や思想に深く根ざしているということを理解してもらいたい。
まず、石原莞爾について。石原莞爾(1889-1949)は、大日本帝国陸軍中将である。彼は満州事変の計画立案者の一人であり、その後、関東軍の満州国における作戦計画に深く関与した。
彼は、『世界最終戦論』において日蓮宗の教義に基づく世界観について論じており、彼の世界観は、戦争を「終末的な解決手段」として捉え、最終的には世界平和を実現するための手段とした。この思想は、仏教の教えに基づく理想的な世界を目指すものであり、現実の戦争を超えた先にある平和な世界を描いていた。(また、現世利益を求める日蓮宗らしく、敗北主義的な皇道派的理論を批判し、満蒙を領有し米ソとの戦争に備え大陸の富を用いた日本経済の基盤の底上げを企図する、現実的な勝利への道筋を模索したいわゆる統制派的な思考の持ち主であった。)
一方、宮沢賢治(1896-1933)は、日本の作家であり、その作品は自然と人間との調和をテーマにしている。彼もまた日蓮宗の熱心な信者で、国柱会の活動に積極的に参加していた。
彼の思想は、農業と信仰を通じて理想郷を実現しようとするものであり、「イーハトーブ」という理想の地を描いていた。彼の作品には、仏教的な慈悲と共生の精神が色濃く反映されており、人間と自然との調和を追求している。
彼は、大正10年1月、東京の国柱会館を訪れ、高知尾智耀から「法華文学ノ創作」をすすめられ、筆耕校正の仕事で自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中する(宗教法人国柱会ホームページより)。ここから、彼の作品が宗教的な思想が基盤となって作られたことが推察できる。
石原と宮沢の思想的共通点は、まず第一に、日蓮宗の教えに基づく「国体観」である。彼らは共に、国家の存在を重視し、その基盤としての道徳と信仰を強調した。日蓮宗は、日本国の神聖さとその守護を唱える宗教であり、国柱会もこの教義を基に活動していた。石原の軍事思想と宮沢の文学作品には、国家の道徳的再生と理想的な社会の実現が共通のテーマとして見られる。
次に、2人は共に「終末論的」な視点を持っていた。石原は『世界最終戦論』を通じて、最終的な大戦争の後に訪れる平和を予見していた。一方、宮沢は『銀河鉄道の夜』などの作品を通じて、死後の世界や宇宙的な視点からの人間の救済を描いていた。彼らは現実の苦難を乗り越えた先にある理想的な未来を信じ、それを実現するための行動を重要視したのである。
さらに、石原と宮沢は共に「奉仕」と「自己犠牲」の精神を強調していた。石原は軍人として、国家と世界平和のために自己を犠牲にする覚悟を持っていた。彼は自らの使命を全うすることを通じて、世界の平和を実現しようとした。
一方、宮沢は「雨ニモマケズ」に代表されるように、自らを犠牲にして他者のために尽くす姿勢を持っていた。彼の作品には、自己犠牲と他者への奉仕が重要なテーマとして繰り返し描かれている。
最後に、二人は共に「理想主義者」であった。石原は現実の戦争を通じて理想の平和を追求し、大日本帝国や大陸の現地住民にとっての利益となるよう五族協和の理想郷たる「満州国」を作りあげ、宮沢は理想郷「イーハトーブ」を通じて人間の理想的な生き方を描いた。
彼らの思想は、現実の苦難を乗り越えた先にある理想の世界を信じ、それを実現するための具体的な行動を伴っていた。彼らは共に、現実の世界を変革するための強い意志と信念を持っていたのである。
以上のように、石原莞爾と宮沢賢治は、日蓮宗系の国柱会の会員として共通の宗教的背景を持ち、その教義に基づく思想的共通点を多く持っていたことが分かる。彼らの思想は、国家の道徳的再生、終末論的な視点、自己犠牲と奉仕の精神、そして理想主義といった点で共通しており、それぞれの分野での活動に深く影響を与えている。このような共通点を通じて、彼らの思想と行動は現代にも多くの示唆を与えていると言える。