【短編小説】注釈男 世界は踊る 第8話
【第8話】
「殺人」の注釈によって、あの胸糞の悪いカルト集団「注釈男の意志」は雲散霧消した。 僕の願いは十分満たされた。
「注釈男の意志」の残党は、復讐のために必死になって僕のことを探しているそうだが、それは逆恨みというものだろう。
流れ弾を食らった他の人殺しのみなさんはお気の毒だけれど、これも身から出た錆なので諦めてほしい。
僕は、注釈を復活させてからすぐに会社に退職届を出した。
会社からは形ばかりの慰留はあったものの、あっさりと退職することができた。
しばらくは、わずかな退職金とこれまでの貯蓄で食いつないでいくことができるだろう。
悠里と千帆のために無理をして建てたこの家は、いずれ手放すつもりだ。
そして、美味い泡盛にゆらりゆらりと溺れながら、ぼんやりと考える。
これから僕はどのように生きていけば良いのだろうか。
このまま注釈男として生きていくべきなのだろうか。
怒りに身を任せて、自分を満足させるためだけに注釈を付けて、人を傷付け、自分を傷つけ、自己嫌悪を繰り返すのか。
その度に世界は勝手に壊れていくけれど、本当にそれでいいのか。
これまでたった2回注釈を付けただけで、この世界が嘘と隠し事と欺瞞で出来ているのがよく分かった。
でも、それを暴いたことで何が生まれたのか。
まだ足りないのか。
もっと破壊を繰り返さないと何も生まれないのか。
僕が注釈男になった意味とはなんだ?
僕が本当にやりたいことってなんだ?
答えはどこにもない。
その夜、不思議な夢を見た。
「相変わらず美味そうに泡盛を飲んでいるな。」
薄ぼんやりとした黄金色の光の中、目の前に、和服のような、それでいて大昔の中国服の印象もある装束を着た、高貴な雰囲気を放つ男が悠然と座っている。
「久しぶりだな。」
男はニヤリと笑いながら言った。
確かに僕はこの男を知っている。でもどこで会ったのだろう。思い出せない。
「なんだ、私のことを覚えていないのか。お前がその力を持った夜に会っただろう。」
そうだ、思い出した。僕が注釈男になった最初の夜、確かに夢の中で会った。
「やっと思い出したか。お前の願いを叶えてあげたが…迷惑だったか?」
不思議なことに、僕はその男の存在を当然なこととして受け入れている。
「迷惑ではないですが、少々戸惑ってはいます。でも、なぜ僕なんかの願いを叶えようと思ったのですか?」
「気まぐれだよ。私の王朝は、明と薩摩の間に挟まれてさんざん苦労させられてな。それに、国に寄りつく商人どももみんな魑魅魍魎の類でな。国中に悪巧と奸計が蔓延していて、私も民も、何が本当で何が嘘か、それさえ分からなくなっていた。だから私は、世の中を早急に廉直で誠実なものにする必要があった。そう、あの時の貴方と同じような心境だった。だから、貴方の願いを面白いと思って手を貸したのだ。」
男は、日ごろ民に見せているであろう威厳に満ちた顔で答えた。
気がつくと僕は、鮮やかな赤色を基調とする荘厳な建物の中に立っていた。赤瓦といたるところに描かれた龍が日本の城とは違う雰囲気を醸し出している。
そうか。ここは首里城だ。
男は再びニヤリと笑うと今度は悪戯っぽい表情で言った。
「と、言うのは建前で、本当はな、この虚空から、お前の泡盛の飲みっぷりの良さを見てな。やまとひとであるお前があんまり美味そうに泡盛を飲んでいるのを見て、ついつい嬉しくなって、願いを叶えただけなんだけどな。」
「そんなことで!?」
「十分な理由ではないか?」
「でも、僕はせっかくいただいた力を自分のちっぽけな欲望を満たす為だけに使っています。それでも良いのですか?」
「構わない。好きに使えばいい。」
「僕の下世話で取るに足らない問題を解決するために、世界を変えてしまっても良いのですか?」
「誰が何を変えたとか全く意味がないことだ。それが元々決まっていたこの世界の運命だ。私がお前に力を与えたことも、今までお前が行ったことも、これからお前が行うことも、全ては世界の運命に組み込まれている。うぬぼれない方がよい。お前が世界を変えているのではない。運命がお前を動かしているのだ。」
「それでは、僕の意思はどうなるのですか?僕の意思は無意味なのですか?」
「心配するな。一人ひとりの意思は世界の意思と同期している。世界の意思は、全人類の意思の集合体だ。相反する意思をも併せ持つのが世界の意思だ。だから、面白い。」
「それでは、僕が世界の崩壊を敢えて望むとしたら、それも世界の意思でもあるということですか。」
「然り。だが、結果がそうなるとは限らないぞ。」
「ならば、僕は、注釈男の力を使って全てを一旦チャラにして、嘘偽りのない世界にしたい。注釈男の存在意義がなくなるような世界を見たい。世界を丸裸にして、何が残るのか何が生まれるのかを知りたい。」
男は、破顔一笑して言った。
「それもまた、然り。」
その選択が本当に正しいものなのか、男にもう一度訊ねようとしたところで目が覚めた。
そして僕は、
(次回、最終話)