板前の常識は世間の非常識 華道編

板前の常識は世間の非常識
華道論

華道って聞くとどんなイメージ持たれますか?
何となく大和撫子っぽい女性が生けてるイメージ?
ただ、華道の世界は今も昔も男性社会なんだそうですよ。

僕が華道を始めたのは20歳の時。
華道と同時に茶道も始めたんだけど、それはまた今度話しますね。

さて、何故華道を始めたかって云うと、兄貴が習っていたからです。
兄貴は「小原流」をならっていた為、僕も真似して何も分からずに近所の新小岩にある「小原流生け花教室」に通う事にした。
僕の先生は「中村一好」という女性の先生でした。
本名は好子って云うそうですが、看板と同時に頂いた名前だそうです。

自宅の一画を教室に改造して沢山の生徒さんにご教授されていました。
ほとんど女性、いや男性とご一緒したのは数える程しかない。
そこにこんな20歳の幼気な男の子が入ったもんだから、いじられるいじられる。笑

いや、先生はめちゃめちゃ厳しい方なんですよ。
それでいて、もの凄く優しくて、エネルギッシュな方です。
今でも全国を飛び歩いて県の代表に教授されている程です。

河岸(築地の事)で魚を卸した後、この教室に通う訳です。
僕の休みは不定日でしたが、先生は自宅を改造して教えておられたから
「いつでもいらっしゃい」と言って下さった。
この言葉に甘えて、休みの日は築地〜新小岩〜国分寺(茶道教室)
と通うのが僕の休みの日のスタイルだった。

一番始めに生けたのは直立系と呼ばれるスタイル。
最初の花は今でも一番好きなピンク色の芍薬。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」ってな具合に
美しい大輪の花が印象的なゴージャスな花です。

ガキの頃にお袋に、
「何処そこのなになに君は生け花できて凄い、アンタは何も出来ない」
って比べられたのがコンプレックスで、花なんか触るか!って思ってたから、
もう訳も分からず必死でやったのを覚えている。

気が付くと4時間5時間経っている。
先生もよく付き合って下さったと今更ながらに思う。
沢山の生徒さんに囲まれる時もあれば、先生に1対1で教えて頂ける事も多くあった。 
生けては崩して、生けては崩し、なんとか先生のお手本に近づけようと必死で頑張るが、もう全然駄目。
僕が正面から生けてるのに、先生は僕に教える為に裏から生ける。
それでも早いし綺麗。
プロって凄いな〜って思ってた。
しかも先生は
「あなたは華のプロではなく料理のプロになるのが目的なんだから華をどう料理に生かすか考えなさい」ってもう目から鱗です。
そして本来は駄目らしいんですが、看板を取らなくても上のレベルの華の生け方を教えてくれたんです!
今でも僕は「本科」と呼ばれる一番始めの免状しかない。
でも先生は「投げ入れ」 「丸水盤」 「葉組」 「七宝生け」
「菊3種生け」などどんどん高度な生け方を教えてくれた。

この先生褒めるのがとても上手な先生で、今まで仕事で馬鹿にされた事と怒られた事しかなかった自分は褒められたい一心で必死に教わった。

ひとしきり授業が終わると、
「石田君、ご飯食べて行きなさい」と、なんとご飯まで出してくれた!
ご家族とテーブルを囲んでご飯を食べたのも1度や2度ではない。
僕が練習で焼いた卵焼き持ち込んだ事もあったっけ。
息子さんと歳が近いせいもあったかもしれないが、とても良くして頂いた。
良い思い出です。

ところで、どうして華道を習うの?って思いますね。
センスが磨かれます!

特に僕みたいな田舎もんは都会的センスに憧れてたからね。
兄貴や同僚に「お前、その らあ〜 ってやめろよ田舎もん」
「そ〜かしん?、って何だよロボットか?」
ってよく馬鹿にされたからね。
しばらくあだ名がカシンだった..... 黒はんぺんの時期もあったな。

「焼津弁でしゃべるとわからね〜から標準語でしゃべれ」
って本気で矯正された。
カウンターに出てたからね。

静岡ってね、名前呼ばれると「はあ〜?」って云うのが返答なの。
なに〜?って云う意味。女の子でも同じなの。
同じ様にしたら先輩に問答無用で殴られた。
今思えば、東京では確かに失礼だわな.....

でもそんだけ馬鹿にされたから「美しい日本語」とかって本を買って来て標準語を勉強したのね。
おかげで今では標準語の文章も書ける様になった。
有り難う玄ちゃん。笑

話しを華に戻します。
兄貴にも云われたけど、刺身を盛る時の色彩感覚が磨かれるそうです。
後は、器に対してのバランス感覚もね。
これ以上は野暮、ってのが分かる様になると。

僕はまだ分からないからまだ野暮だな。

もっと精進して「粋」になりたいもんです。

つづく。。。

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