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「鎌倉殿の13人」について

三谷幸喜は、今回の「鎌倉殿の13人」(以下「鎌倉殿」)が大河ドラマ3作品目となる。第1作が04年「新選組!」であり、第2作は16年「真田丸」で、いずれも話題になったと記憶している。

この中で、「新選組!」と「鎌倉殿」は共通点が多い。「バトルロイヤル形式」とでも呼ぶべきか、最初に登場した主要登場人物がどんどんと殺し合ったり命を落としたりして、最後には、ほぼ誰も生き残らないというストーリー展開である。

「新選組!」の場合は、組織内抗争や粛清を頻繁に繰り返し、それ以外にも戊辰戦争で命を落としたりして、主要登場人物で明治後も生き残ったのは、斎藤一と永倉新八くらいじゃなかったか。

「鎌倉殿」の方も似たようなものである。北条家と対抗できる有力御家人が次々と粛清されていった後、北条家内部の頂上決戦が行われて、時政派が排除され、義時のいわゆる得宗家だけが残る。その義時も後妻の実家である伊賀氏に誅殺されたという噂もある。主要登場人物で最後まで生き残るのは、義時の息子の泰時、弟の時房、それと三浦義村くらいか。その三浦氏だって、しばらく後の時代になって北条氏に滅ぼされている。主筋の源氏にしても、頼朝を含めて誰もまともな死に方はしていない。たぶん北条氏が裏で暗躍したはずである。

この2作品、あと「真田丸」も含めて、三谷作の大河ドラマすべてに共通するようなものが何かあるだろうかと考えてみた。1つ思いついたことがある。それは、「最後に生き残った者が勝者とは限らない」ということである。

坂東武者の倫理観を示すキーワードとして、「命を惜しむな、名こそ惜しめよ」がある。ぶざまに生き延びるくらいならば、名を後世に残すような事を為して死ぬべきであるという考え方である。その後の時代の武士にも通じるところがある。

「鎌倉殿」の登場人物について言えば、そういう意味でも、北条氏は、生き残りゲームの勝者であったことは間違いないものの、好感度とか後世の評価という点に関しては、決して高得点は与えられないはずである。彼らは陰湿で権謀術数に長けた匂いしかしないのだ。

逆に華々しく散って、後世に名を残した人物としては、源義経、畠山重忠といったところであろう。

「新選組!」に関して言えば、まずは土方歳三である。華々しい散り際がとにかく格好良い。新選組関係者の中では、いつの時代においても別格的に人気がありそうである。あと、山南敬助とか藤堂平助なども同様である。逆に近藤勇はあまり人気がない。捕まって斬首された格好良くない死に方がマイナスなのだろうか。それよりも、沖田総司や、明治後も生き残った斎藤一や永倉新八の方が人気がある。彼らに関しては、剣客としての知名度による評価なので、あまり死に際とは関係ない。

「名こそ惜しめ」と同じ文脈で考えるならば、「真田丸」の主人公、真田信繁(幸村)は、終生、「どういう死に方をするべきか」を考え続けた人であったように思われる。

彼などは真田家の次男坊だし、父親の真田昌幸、兄の真田信之に比べて、前半生はほとんど何も記録がない。それが、大坂の陣で急に脚光を浴びて、壮絶な最期を遂げたことで、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」という評価が死後に確立した。考えようによっては、死に際の「一発屋」的な頑張りで、零細大名家である真田家のブランドイメージ向上に大いに貢献した功労者と言えよう。真田家は徳川家に何度も歯向かった前科者であり、豊臣滅亡後は、さっさと取り潰されていたとしても何ら不思議ではなかったはずである。にも拘らず、明治維新まで存続できた理由の幾ばくかは信繁にあったような気がする。徳川家はブランドに弱いのだ。

そう考えると、これら3作品に共通するテーマとしては、「最後に生き残った者が勝者とは限らない」ということに加えて、人生において重要なことは、どれだけ「良く生きる」ことができるかであるような気がする。

と、ここまで考えて、ストア哲学が頭に浮かんできた。

「死は必然であり、避けることはできない。死から逃れてどこへ行こうというのか?」(エピクテトス)

「問題は、どれだけ長く生きるかではなくどれだけ立派に生きるかである。」(セネカ)

明治生まれの僧侶にして、直木賞作家、参議院議員であった今東光は、人生、いかに生きるべきかと問われて、「人生はな、冥土までの暇つぶしや。だから、上等の暇つぶしをせにゃあかんのだ」と言ったそうである。

いくら医学が発達して寿命が延びたところで、永遠に生きることはない。いつかは必ず死ぬ。無為に長生きしても仕方がない。人生において重要なのは、「何を為すか」である。

武士にとっては、家の存続とともに、後世に勇名を残すことが最大のテーマであろう。だが、これとて、単なる暇つぶしである。大切なのは、暇つぶしは暇つぶしなりに、上等な暇つぶしのやり方を自分自身で考えて実践することである。そうすることで、少なくとも自分自身にとっては、意味のある、味わい深い人生となり得る。そうでなければ、長寿を全うしたところであまり意味がない。

「良く生きる」ということは、言葉で言うと簡単だが、なかなか難しい。「名こそ惜しめ」というのも同様である。

R.ベネディクトが『菊と刀』 の中で、日本人特有の文化体系、行動様式として、恥をかかないとか、恥をかかせるとかいうように「恥」の道徳律が内面化されていることが、日本人の文化を特色づけているとして、これを「恥の文化」と呼んだ。

昨今の世の中を見ていると、恥を恥とも思わないような人物が少なくない。平気で嘘をつく人、言ったことに責任を取らない人、自分の立場を利用して不当な利益を得たり、他人を虐げても平気な人。

「恥を知る」というのは人として大切なことだと思うのだが、彼らはそんなことも教わらなかったのであろうか。あるいはエラくなると、そういう基本的なことも忘れてしまうのだろうか。

彼らに対して、「良く生きよ」とか「名こそ惜しめよ」と言ったところで、馬耳東風なのかもしれない。言うは易しである。実践するのは、なかなかに難しい。


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