「英語準公用語化」について
日本という国は、他国の人たちから見て、あまり人気がない国かもしれないと思う。
コロナが沈静化して以降、海外からの観光客は増えた。高級ホテル・旅館には外国人客が多い。海外の富裕層が泊まれるようなラグジュアリーなホテル・旅館をもっと増やそうという話もある。
一方で、日本に留学しようとか、日本で働こうという外国人はさほど増えたという話は聞かない。少子化による人口減少がじわじわと進行中であるにもかかわらずである。
前にも書いたが、やはりここには日本語の壁というものが立ちはだかっていると思う。短期的な観光旅行であれば、日本語を覚える必要はないが、日本で腰を据えて勉強するとか、働こうと思えば、どうしても日本語を習得する必要がある。
日本語学習は、外国人にとっては、「コスパ」が悪い。日本でしか通用しない言葉だからである。習得するのに骨の折れる特殊な言語なのに、狭い島国でしか通用しない。しかも人口は絶賛減少中である。
日本でしか学べないことを学ぶとか、日本人と結婚して日本に住まなければならないとか、特別な理由・事情がある人ならば、それでも頑張って日本語を習得するであろう。それ以外の人たちにとっては、とにかく「コスパ」が悪い。同じ手間をかけるならば、他に学ぶべきことはありそうな気がする。
長いものに巻かれろという言葉がある。インターネットの世界を見ても、英語ができると獲得できる情報量は桁違いに多くなる。
その逆も真なりである。英語に乗っけることで、日本人の情報発信力も飛躍的に拡大させることが可能となる。「ハリー・ポッター」シリーズならば、翻訳せずとも世界中をマーケットにできるが、日本の小説家がどれだけ優れた作品を書いたところで、翻訳しない限りは海外の読者には届かない。人口10百万人しかいないスウェーデンのABBAが世界的なアーティストになったのも、英語で歌っているからである。
外国人が日本語を習得するのは「コスパ」が悪いが、日本人が英語を習得するのは「コスパ」が良いということになる。
明治維新以降、義務教育を通じて標準語を日本国中に浸透させたのは、富国強兵、殖産興業を推進する上で、東北人と鹿児島人とでは会話が通じないようなことでは困るからである。明治時代の「標準語」と、現代における「英語」とは、たぶん同じ位置づけではないだろうか。
日本人が日本語を捨てて、外国語を習得したら、日本固有の文化が失われると言う意見があるが、誰も日本語を捨てろとは言っていない。日本語は日本語として引き続き習得すれば良いのだ。必要なのは、「英語準公用語化」政策である。
学校教育だけに期待しても仕方がないので、国策として「英語準公用語化」にシフトチェンジをする。街中の標識や掲示板、企業のホームページ、役所の公文書等、我々の日常生活で目に触れる情報については、基本的にすべて日本語・英語の併記とする。教科書や書籍も、可能な限り、日本語・英語の対訳形式とする。テレビ放送はすべて副音声は英語とする。役所等の提出書類も日本語または英語のいずれか選択可能にする。大学のテキストや参考文献等で原文が英語のものは、敢えて訳本は使わない。高校や大学の授業を英語でやるという選択肢も可とする。
今のオトナに関しては手遅れかもしれないが、国策として「英語準公用語化」に取り組めば、10年とか20年くらいかければ、今の子ども世代から後の世代は、英語を不自由なく操れるようになっているのではないだろうか。昔は中国人も韓国人も日本人同様に英語が苦手だったのが、今や置いてきぼりを食らっているのは日本人だけである。要は、国全体として腹を括って、継続的な取り組みができるか否かである。
英語で不自由なく生活できるとなれば、世界中から日本に大勢の外国人がやって来るに違いない。安全で生活しやすいし、物価も安い。優秀な外国人、おカネ持ちの外国人も、日本に生活の拠点を移したいと考えても不思議ではない。優秀な層の移民を増やしたいと思うのであれば、「英語準公用語化」を推進するのが最も効果的である。
英語で仕事ができる労働者が確保できるのであれば、日本に拠点を移したいと考える外国企業も増える。シンガポールや上海、香港と勝負できるようになる。
元々、日本人労働者の資質は悪くはないのだから、英語さえできれば、いくらでも仕事はある。日本にとどまる必要もない。海外に出て行って、そこで勝負することもできる。
「失われた30年」とか言っているが、この先も「失われた」状態にしないためにも、「英語準公用語化」は重要かつ決定的な戦略になる。今の日本は、日本語というローカル言語にこだわって、鎖国しているのと同じである。そろそろ本当の意味で開国しないといけないのではないだろうか。