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死の物語、死と物語――クラリッセ・リスペクトル『星の時』

 「名もなき悲惨」、それはどこにでもあるような、あからさまな物語――クラリッセ・リスペクトルの『星の時』(福嶋伸洋訳、河出書房新社、2021年)に描かれる、リオのスラム街で暮らす19歳の北東部から来た女ノルデスチーナ・マカベーアの生も、そういった物語の一つにすぎないのだろうか。しかしまた、この小説にはもう一人の主人公がいる。マカベーアの物語を書いている「ぼく」、作家であるロドリーゴ・S・Mだ。幾度か「あなたがた」と呼びかけられる読者は、マカベーアの物語――あるいは一つの生と死――を書くことそのものにつき纏う逡巡のようなロドリーゴの独白を読みながら、彼によって徐々に語られて行く彼女の物語を読むことになる。

 一人の男が、自分について何も知らず自身が不幸であることを知らない一人の女について語る? それこそ、どこにでもあるような物語、あからさまなクリシェそのもの――《ぼくが書くものも、他の書き手にも書けそうなものだ。他の書き手、でもそれは男でなければならない。だって女の書き手というものは、つまらないことですぐに涙ぐむから》とロドリーゴは言う――ではないか? しかし言うまでもなく、この小説はクラリッセ・リスペクトルという一人の女性作家によって書かれたものだ。訳者のあとがきによれば、リスペクトル自身が、この作品の主題は「踏みつぶされた無垢」そして「名もなき悲惨」であるとインタビューで語っているという。


 ロドリーゴは独白をしながらもマカベーアの物語を書き始め、そして書き継ぐにあたって何度かの脱線や書き直しや中断を余儀なくされる。それはまるで、あからさまな「メロドラマ」を書くことに対する彼の嫌悪からやって来るかのようだ。とりわけ顕著なものでは、雇いの料理人の女が書いたものを捨ててしまったからまた書き直さなければならない、物語の登場人物たちと付き合うことに疲れきってしまったから三日間の中断が必要だ、などと彼によって釈明される。その後、書き直しから語られ始めるのは、マカベーアが同じ北東部出身の青年オリンピコに人生で初めて恋をしながらも、同僚のグローリアに恋人を奪われてしまいその恋が破局を迎えるまでの物語である。さらにまた、作品の終盤、三日間の中断の後に語られるのは、占い師に幸運の知らせを告げられ人生で初めて自分の運命を知ることになったマカベーアが、占い師の家を出る矢先に車に轢かれてしまうという、文字通りの終盤、彼女の死だ。

 ここまでロドリーゴの独白と、彼の言う「物語の物語」つまりマカベーアの物語を読み続けてきた読者は、この『星の時』という小説が、そもそもはじめから死によって運命付けられたものであったかのように感じる。たしかに、作品を読み返せば、彼が語る彼女の物語の至るところに彼女の死の符牒のようなものを見出すことができるだろう。死に瀕したマカベーアが横たわっている道路の曲がり角からヴァイオリンを弾きながらやって来る男。そして、彼女が最後に発した誰も聞き取れなかった言葉、「未来のことは」。この死の光景へと向かう兆候を、ロドリーゴは彼女の物語を書き始める前からすでに記している。例えば、歯痛という身体的な痛みに絶え間なく苛まれながら物語を書いている、と彼は言いながらこう付け加える――《またこの物語にはずっと、近くの街角で痩せた男が弾くヴァイオリンの嘆くような音色が伴っていることも言っておく。顔が険しく青白い彼は死人のように見える。たぶん死んでいるのだろう》。

 しかし、作品が運命付けられていた死とは、物語上のマカベーアの死だけではない。それは、ロドリーゴが物語を書くことそれ自体に、そして何より物語というものそのものに孕まれている死ではないか。


 一般に物語には始まりがあって終わりがある。読者は、ロドリーゴの語りを通して、マカベーアという女性が創り出され、幾つかの挿話と彼女の死をもって終わる物語の、その創作過程に立ち会う。そして、彼女の物語が終わることによって、語り手である彼もまた死を迎えることになるだろう――「マカベーアがぼくを殺した」。云わば、死へと収斂されていくマカベーアとロドリーゴの二つの物語がある。二つの物語は、始まり(生)から終わり(死)へと向かっていき、どちらも直線的な時間に沿って進むかのように見える。しかしそれでいて、矛盾も辞さずに脱線と中断を幾度も繰り返すロドリーゴと、自身については何も知らず「ますます自分のことを説明できなくなった」マカベーアが、つねに相互に浸透し合っているかのようなのだ。彼の語りの空虚さと、彼女の生きられた空虚さが、つねに反響し合っている。語り手と登場人物の物語の境界は識別不可能なものになっていく。《ぼくはぼくなのか? 自分を見出すとぼくは驚く》。

 そもそも物語というものそのものが、はじめからこのような諸相と無縁ではいられないはずだ。物語は直線的な時間に沿って継起し、大小幾つかの破局を抱えながら最後には死が待ち受けている。物語の語り手は、この破局と死にたえず付き纏われているし、自身もその死に曝されていることに気付かずにはいられないだろう。さらに物語は、そのものがつねに孕み持っている死すらも、ある種の登場人物にすることだってできてしまう。マカベーアの死の瀬戸際でロドリーゴは言う――「死は、この物語の、ぼくのお気に入りの登場人物だ」。このようにして、物語は死によって閉じられた自立した空間を作り出す。しかし、自立しているように見えるからこそ、物語の内部における、いつの間にか物語そのものとなった語りの脱線や断絶、そして語り手と登場人物との相互浸透や反響が、顕著に現れることになるのだ。あたかも、物語の境界の識別不可能性と死は、互いに相似していくかのように。

 では、ロドリーゴに幾度も「あなたがた」と呼ばれるこの物語の読者は、いったいどこにいるのだろう。物語の外部だろうか? それとも、マカベーアの物語、それを語るロドリーゴの物語、そしてそれらを読む「あなたがた」というように、読者も物語のこの円環の内部にいるのだろうか? 物語が創り出し、なおかつそのものを成り立たせている、このような境界が識別不可能になる時空間。登場人物と語り手だけではなく、読者もまたそこにいるのではないか。


 作品を読み終えたわたしがもう一度読み返そうと本の扉を開くと、そこには十三の小説の題が「『ぼくのせい』または『星の時』または『なんとかする彼女』または(…)」と並べられている。この形を持った書物に付けられた『星の時』という書名も、その中の一つに過ぎない。さらに次の頁をめくると、「著者からの献辞」が置かれているのだが、そのすぐ下に「(実際にはクラリッセ・リスペクトルによる)」という謎めいた括弧書きがある。それから、物語はこのように始まるのだった。

世界のすべては、ひとつの「イエス」から始まった。ひとつの分子がもうひとつの分子にイエスと言って、生命が誕生した。でも、歴史が始まる前のそのまた前には、先史の先史とか、いちども存在したことのない時代とかがあって、「イエス」があった。それはずっとあった。よくわからないけれど、宇宙の始まりというものが存在したことがない。

 冒頭のロドリーゴの語りによって、この物語(言葉)はその始まりからすでに奇妙に捻じれていたものだったことに気づく。マカベーアの破局や死の物語もこの捻じれた反復の次元で語られているのだ。そして、物語を読むわたしもこの時空間の中に入っていく。「書くことで、出来事は事実になる」とロドリーゴはその後に語っているが、その「出来事」や「事実」とは、いったい何だろうか? 彼はまた言う――「〔書くことで、〕言葉や文章を超える秘密の意味が立ち上がってくる」。

 始まりはいつから、そして、どこで? 物語の時空間で、わたしは、終わり(死)に対しても同様にこの疑問符を投げかける。星の時、死の物語、死と物語。《映画スターの役を完璧に演じられるくらい覚えたように、いつか死ぬのは確実だった。死ぬとき人はスターになって輝く》。死の瞬間にマカベーアが吐き出した「光を発する何か」は、「千の鋭角を持つ星」。あなたがたがこの物語を読むことで、「または」と並列された十三の小説の題はさらに増殖していくかのようだ。マカベーアという物語の人物を「生身で生きるひとりの人間」として創り出そうとしているロドリーゴは、書くという経験がなければ「ぼくはある意味で毎日死ぬことになる」とも言っていた。彼の語りの中で「現実」という言葉はつねに宙吊りになっている。「現実」の死に抗うこと? そして、いつか、生きられた「名もなき悲惨」――《ぼくは問いかける。世界でこれまでに書かれてきたあらゆる物語は、苦しみの物語なのだろうか?》――は、その物語(言葉)を超え出るだろうか?

 作者であるクラリッセ・リスペクトルは、『星の時』を刊行した数ヶ月後に亡くなった。《まったく、ぼくたちは死ぬということをやっと思い出した。でも――ぼくも⁈》……

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