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写真と中性の言葉――金川晋吾『いなくなっていない父』

『いなくなっていない父』(晶文社、2023年)。このどこか曖昧なタイトルをはじめ目にしたとき、父がいなくなってしまい(いま・ここに)いないのか、それとも父はいなくなることなく(いま・ここに)いるのか、どちらの意味だろうかと不思議に思った。 著者の金川晋吾は、かつて失踪を繰り返していた父の姿を写真に撮り続けてきた写真家である。かつて繰り返していた、と過去形で書いたのは、著者が父の写真を撮り始めてからは十日間ほどの失踪が一度あっただけで、それ以降は現在に至るまで失踪していないか

    • reproduction――市川沙央『ハンチバック』

      1.身体  それが差別的な蔑称だとしても、作品のタイトルは「せむし」を意味する身体の一つの様態を指す言葉だ。語り手は自身の身体をつぶさに描写する。「ミオチュブラー・ミオパチー〔筋疾患先天性ミオパチー〕」――「健常者優位主義」たる読者には、聞き慣れない名称だ――という疾患を背負って生きている彼女からすれば、嫌でも「極度に湾曲したS字の背骨」を持つ身体につねに注意を集中し続けなければならない。冒頭すぐに人工呼吸器に接続された身体が立ち現れるが、その身体においては呼吸することにさ

      • 「密使と番人」(三宅唱、2017)

        枯れ木が立ち並ぶ寒々とした山道。微かな風のざわめきと鳥たちの鳴き声とともに、一人の男が息を吐きながら落ち葉を踏みしめる音が響く。時おり、日没前の陽光が、くたびれ果てて地にしゃがみ込む男と、風に揺れている木々や丈高いススキの間に差しこむ。また今日もあっという間に、あたりは真っ暗になってしまった。夜の闇の中を照らすことができるのは、ぱちぱちと静かに音を立てて燃える焚き火の炎だけだ。男(密使)は追われている。そして、この荒涼とした風景の中を、彼と同様に彷徨い歩いては、彼を捕らえよう

        • 耐え難いもののゆくえ――金子光晴『絶望の精神史』

           気づけば今年もあとひと月しないうちに終わってしまう。相も変わらずメディアを通して垂れ流される映像と、SNS上に累々と散らばっている言葉――それら複合体が形作るクリシェは、つねに耐え難いものとして眼に映る。しかし当然のことだが、戦争や重大な事件であれ、経済的な危機と破局であれ、その大半は種々のメディアを通すことによって以外には何事も知りえないだろう。決して慣れ切ってしまうことのない耐え難いものは、報道される出来事それ自体だけではなく、いわばその出来事の(映像と言葉による)表現

          時間の目まいの中で「見出された時」――ロラン・バルト『明るい部屋』

           個人的な思い入れが強すぎてそう何度も読み返すことができない書物が、誰にでも一冊はあるのかもしれない。私にとってその一冊は、ロラン・バルトの『明るい部屋――写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房、1997年新装版)だった。いや、憶えている限りもう少し正確に言えば、初めてここに書かれた「ある真実」に刺し貫かれてからというもの、その傷痕の感触を手掛かりに繰り返し読んでいたのは間違いないのだが、ある時を境にこの本に直接には触れることがなくなった、というところか。最後に読んだのは

          時間の目まいの中で「見出された時」――ロラン・バルト『明るい部屋』

          傷痕と時の結晶――チェーザレ・パヴェーゼ『美しい夏』

           過ぎ去ろうとする時を生きる女がいる、過ぎ去ってしまった時を見つめる女がいる。「あのころはいつもお祭りだった」――あの美しい夏の夜々に16歳のジーニアは、居ても立っても居られず家から抜け出し街の通りを歩き続ける。そしてその夏、彼女は画家のモデルをやっているらしい19歳のアメーリアと出会う。しかし、チェーザレ・パヴェーゼの『美しい夏』(河島英昭訳、岩波文庫)は、その作品名や美しい冒頭から想像しうるものとは違って、大半は夏が過ぎ去ってしまった後の季節が舞台となって描かれている。

          傷痕と時の結晶――チェーザレ・パヴェーゼ『美しい夏』

          死の物語、死と物語――クラリッセ・リスペクトル『星の時』

           「名もなき悲惨」、それはどこにでもあるような、あからさまな物語――クラリッセ・リスペクトルの『星の時』(福嶋伸洋訳、河出書房新社、2021年)に描かれる、リオのスラム街で暮らす19歳の北東部から来た女・マカベーアの生も、そういった物語の一つにすぎないのだろうか。しかしまた、この小説にはもう一人の主人公がいる。マカベーアの物語を書いている「ぼく」、作家であるロドリーゴ・S・Mだ。幾度か「あなたがた」と呼びかけられる読者は、マカベーアの物語――あるいは一つの生と死――を書くこと

          死の物語、死と物語――クラリッセ・リスペクトル『星の時』

          中井久夫「戦争と平和についての観察」から、いくつかのメモランダム

           精神科医・中井久夫による「戦争と平和についての観察」は、主に二十世紀の戦争と、戦時下――戦前・戦後も含む――における人々の心理的動向を分析の対象として、戦争と戦争犯罪がどのようなメカニズムで起こるのかを簡潔かつ精緻に描き出した論考である。いつ読んでも示唆に富む内容であることは言うまでもないが、「いま」読み返したとき、よりいっそうアクチュアルに響く文章をいくつか抜き出してみよう。  引用は『中井久夫集9 日本社会における外傷性ストレス』(みすず書房、2019年)に依拠したが、

          中井久夫「戦争と平和についての観察」から、いくつかのメモランダム

          それでもなお〈トラブル〉を引き受け直すこと、あるいは「出会い」を到来させるために――藤高和輝『〈トラブル〉としてのフェミニズム』

           たしかに生は、己の与り知らないトラブルに直面し巻き込まれ続ける混乱の過程である。しかし、己の与り知らないトラブルを、それでもなお己の身において〈トラブル=とり乱し〉として引き受け直すとき、生は、新たな〈トラブル=問い〉を創造することを繰り返す予見不可能な過程となる。  藤高和輝の新著『〈トラブル〉としてのフェミニズム――「とり乱させない抑圧」に抗して』は、ジュディス・バトラーと田中美津から受け継いだ〈トラブル=とり乱し〉というキーワードを、身体的かつ倫理的な概念として描出す

          それでもなお〈トラブル〉を引き受け直すこと、あるいは「出会い」を到来させるために――藤高和輝『〈トラブル〉としてのフェミニズム』