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幼児洗礼を受けたカトリック信者として「神様のいる家で育ちました」を読み、自分の経験を書いてみる

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最後まで読んでいただけると嬉しいです。

0.はじめに


前回、私は菊池真理子さんがお書きになった「神様のいる家で育ちました」(2022年文芸春秋社)を読んだ感想を書きました。

この記事に示した感想や自己体験は、本当のことで、嘘偽りではありません。
ただ、書いている最中、そして公開した後も自分の中に石のような固い塊のようなものを抱えていたのも事実です。
それは、客観的になろうとするがあまり、自分の素性や個人的な辛い記憶を出さずに書いたからです。
実は、この本に登場する子どもたちのように、いや、あそこまでシビアではないけれど、
私自身も宗教の影響で、窮屈な子ども時代を過ごしていました。

その上で、「神様がいる家で育ちました」を読んだ感想の一言は、
宗教を持つことは生きる上で苦痛になりうるよね』
です。

今日はそう思った背景を自分の素性を説明しながら書こうと思います。

1.5歳の時、カトリックの洗礼を受ける

私は母親の計らいで、自宅から少し離れたカトリックの修道院附属の幼稚園に通いました。その幼稚園は音楽教育が盛んで、音楽好きの母親が気に入ったのです。
通っている園児そして通わせている親の中に信者はほとんどいません。
私が入園した当時は、我が家族も未信者でした。
ですが、幼稚園の先生であるシスターが開く聖書勉強会に父母が興味を持ち、定期的に通う中で父親が信者になることを決断し、
家族全員(父・母・兄・私)で洗礼を受ける、
つまり信者になることになりました。
つまり、私がカトリック系の幼稚園に入ったことが、
家族全員でカトリック信者になったキッカケです。

プロテスタントの教会と違うところは、乳児・幼児のように自分の意思を表明できない年齢であっても、親の意思で子どもに洗礼を受けさせる=信者にすることができるという点です。
当時、私は5歳。
幼稚園では、聖書の話を聴いたり、マリア様を讃える歌を歌ったり、ご飯を食べる前に神様に感謝するお祈りをしたり、という日々を過ごしていました。
目に見えなくても神様っているらしい、ということをボンヤリ思っていましたが、信者になるとはどういうことなのか、よく分かっていませんでした。(当然ですけど)

信者になる決意を固めた父親が
家族全員で洗礼を受けようといったわけではないと、後から聞きました。
母親は
「信者になるのはもう少し勉強した後でもいいんじゃないの?」
と言ったそうですが、
父親は「君はそうしたらいい。僕はもう信者になる。」
と決意は固かったそうです。
なぜ、父親の入信に対する決意は固かったのか。
私なりに推測していますが、確かではありません。
(そのことはまた追々書きたいです)

このように、父親と母親の間で、
洗礼を受けて信者になるということへの熱意は差がありました。
なにがきっかけで、躊躇した母親を含め家族全員で洗礼を受けるということになったのか、その辺りはよく分かりません。
また、当時すでに小学生だった兄はどう思っていたかは謎です。

まぁ・・・何があったかというより、なし崩し的だったかもしれません。
(ちなみに、洗礼を受けることに躊躇していた母親はその後ドハマりします。)

かくして、私が5歳の時の復活祭(イースター)の日に、
私は家族と共に小さな地元の教会で洗礼を受け、カトリック信者になりました。
あの日のことは断片的に記憶があります。
祭壇にお花がたくさん飾られていたこと
頭にかけられた水が冷たかったこと。
そして、「私には関係ないな」と思っていたこと。
父親、母親、兄がマリア像の前で頭を下げた時、
私だけわざと突っ立っていたこと。

2.実は苦痛だらけの幼稚園生活

家族全員でカトリック信者になるキッカケは、私がカトリック系の幼稚園には行ったことでした。
しかし、私は幼稚園生活が苦痛でした。
母親が期待したように音楽教育は熱心に行われていました。
しかし、それ以上に躾が厳しいところでした。
私は、園長先生であるシスターがものすごく怖かったです。
今思えば、厳しいというよりも、高圧的でした。

にらむ・大きな声で怒鳴る・特定の子をみんなの前で叱りつける・・・
いうなればハラスメントに当たる態度で園児に接する人でした。
私の幼稚園生活は、このシスターのにらみの視線に怯えた日々でした。

3.「神様に好かれない子ども」

わたしのシスターへの恐怖心に輪をかけたのは
「神様に嫌われると、地獄に落とされて苦しむ」
という観念でした。
カトリックだけでなく、ミッション系の教育機関あるあるなのかもしれませんが、
事あるごとに「神様」が持ち出されました。

・神様に喜ばれるように、お行儀良くしなさい。
・神様に喜ばれるように、正直でいなさい。
・神様に喜ばれるように、あやまりなさい。
・神様に喜ばれるように、お父さんお母さん、先生の言うことを聞きなさい。
・神様に喜ばれるように、お友達と仲良くしなさい。
・神様に喜ばれるように、出されたご飯は感謝して全部食べなさい。

などなどなどなど・・・・・

そして、時折
神様に好かれた人は天国に行くが、そうじゃない人は地獄に行って苦しむ。
という趣旨の話をされました。

家族で洗礼を受け、私が信者の園児になってからは、より一層圧が掛けられるようになりました。

洗礼を受けたんだから、お行儀良くしなさい。
みんなのお手本になりなさい。

元々、幼稚園に行くことは好きじゃありませんでしたが、年長さんのあたりから、幼稚園が完全に嫌いで苦痛になっていました。

どうしてずっとお家に居られないんだろう・・・と本気で悩んでいました。

4.窮屈さは卒園後も続いた

卒園して小学校に通うようになってからも、毎週日曜日教会通いは続きました。小学校での新たな生活が始まりました。
小学校の先生方はそれなりに厳しく、ほぼ全員が体罰も使って生徒をコントロールしていました。(まぁ、The 昭和ですよ)
ですが、幼稚園と違って「神様」が持ち出されないので、圧の質が違いました。
(もちろん、叩かれたら痛かったよ。そのことは忘れてないよ。)

しかし、私の心の中に刻まれた
「神様に喜ばれないと・・・」という観念は変わりませんでした。

自分の気持ちよりも「神様に喜ばれるか否か」が判断基準になってしまう。
そのせいで、周囲とぎくしゃくした関係になってしまう。
人間関係がうまくいかず、悪口言われたり、仲間外れにされたり辛い思いをしても、
言い返したり、気持ちを表現することを我慢してしまう。
それは、家族に対してもそうでした。
自分を飾らず素直になる、というよりも、
親の想定通りにいることを優先していました。

自分が何か行動したり、意思表示をしようとすることは、
神様から見たら喜ばれないのではないか。
むしろ、自分を押さえて我慢した方が、信者らしいのではないか。

そんな考え方が染みついて、育ち、大人になりました。

5.宗教を持つことで生きづらくなる

厳密に言えば、私は宗教2世ではありません。
「神様のいる家で育ちました」で描かれているような教えへの従順を根拠とする体罰を経験したわけでもありません。
また、親の意向で幼児洗礼を受けたことを恨んでいるわけでもありませんし、カトリック信者をやめようとも思っていません。

ただ、自分の感情や意志以上に
「神様に喜ばれるかどうか」を判断基準にするような生き方は苦しい
ということを身をもって実感しています。
また、私が経験したように、
事あるごとに神様を持ち出して、子どもを躾けようとすることは、
宗教を抑圧装置として使うもので、大変不適切な対応だと思っています。

6.最後に


私が通った幼稚園のみならず、
宗教を用いて大衆のモラルを向上させようとしたということは、
様々な国の歴史で見られます。
それは、快楽的に生きる人間が増えれば社会が成り立たないという
為政者の都合があるからでしょう。

宗教に対する信仰心を強く持つことは、結局大きな権力を持つ者の
都合のいい人間になる可能性がある。
私が園長先生のシスターに怯えて、
何とか気に入られようと必死だったように。

それが、大人になってまで尾を引くなんて誰も想像できません。
私自身、自分の幼稚園時代が大きなトラウマになっていることに気が付いたのは最近のことです。

宗教を持つことで生きづらくなった、という私の本音を
神様がどう感じているのでしょうか。
それはだれにも分かりません。

最後まで読んでくださった方々、
ありがとうございました。






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