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お休みの日のモーニングって特別だよね

先週は久しぶりにこもって仕事をしたくて、朝子どもを学童に送り出したあと、近所のデニーズに一直線。

店内にはちょっとした仕切りに囲まれている集中できそうなエリアと、開放的なワイワイエリアがあり、ワイワイエリアには夏休みの午前だからか、わずかに家族連れが見えた。

私は箱エリアで、テレワークで仕事をするおじさんたちに挟まれながら作業に集中して、お昼を食べたら退店。その足で子どもを迎えに行き、療育へと足をのばした。

流れでデニーズから迎えにきたとうっかり話したら「ずるい、いきたかった」と漏らされる。

こうして、翌朝もデニーズに通うことになってしまった。

朝のファミリーレストランはひとがまばらで、穏やかな空気がただよい、ちょっと特別な時間。

「今日は〇〇を食べるんだ!」と思いをもって起きる朝は、喜びに満ちている。追われることなく、食べたいものを選び、飲みたいものを飲み、家族で食卓を囲む。きっと子どもにとっても特別なのだろう。

いつもは通学で通る道のりも、モーニングのために歩くと思えば、見える景色もキラキラとまぶしいのかもしれない。

私の父は「マクドナルド」という、誰もが知る黄色いMのファストフード会社で働いていた。最初は店のクルーから始まり、最後はオフィスで働く偉い人になっていったが、そこは愛社精神。家族でマックにごはんを食べにということは、私と弟が大きくなってもよくある光景だった。

なかでも私は日曜日の朝にモーニングを食べに行くことが好きだった。とっても特別な時間だったと記憶している。

車に飛び乗って、通り沿いにある二階建ての一軒家に入る。いまはもうあまりないプレイランドつきの店だ。

朝しか食べれないスクランブルエッグの乗ったホットケーキのメニューは、家で食べるそれとはなんだか違うのだ。

実際は家で母が作るホットケーキと大して変わらないのだけど、プラスチックのトレーを開ける瞬間の高揚感、キッチュなナイフとフォークセットに、わざわざバターとかメープルシロップとかつけちゃう特別感に心躍らされていた。

なんて事のないただの休日。ただの朝ごはん。

だけど、小さな世界しか知らない小さな頃の私にとっては、いつもと違う特別な世界なのだ。

結局大人になって思うのは、大きなことよりも華々しいことよりも、キラキラした思い出よりも、こうした日常の方が記憶に残っている。

今からもう30年前のこと。小学生1年生の夏休みに、父と母が1週間の北海道旅行に連れて行ってくれた。レンタカーを借り、北海道を横断したそうだ。

「そうだ」というのは、記憶が薄れていて、覚えていないことが多いからだ。

大人になってこの話をしたら「あんなにお金をかけたのに、こんなにも覚えていないものなのか」と愕然とされたのだけれど、いやそこは本当に申し訳ない。

わざわざ夏休みという旅行代金が高い時期に、お金をかけてもらい、詫びて旅行費を返したいくらいのお気持ちなのだが、記憶とはそんなものなのかもしれない。

もちろん断片的には記憶にある。それが意外としょうもないシーンばかりなのだ。

一番記憶に残っているのは、突然の土砂降り、雷鳴漂うなかで必死に走り続ける車のなかでかかっていた、松任谷由実の『リフレインが叫んでる』の

”どうしてどうして僕たちは出会ってしまったんだろう”  というフレーズ。

どんよりと真っ暗な中、音楽の物悲しいテンションに、ときおり合いの手のごとく雷鳴がはさまり、ものすごく怖かったことだけは鮮明に記憶されている。

「北海道旅行と何の関係もないじゃないか」と総ツッコミだったが、まあ記憶とはこんなもんなのだ。日常のワンシーンほど色濃く残る。



だからきっと土曜日のモーニングにうきうきしちゃっている子どもは、これから先こういう何気ない1日こそ記憶に残るんじゃないのかな。

そうあって欲しいなと願うから、「ずるい、ぼくもいきたい」を受け止めてあげたんだよなぁ。

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