【ロシアレンズ記事】NEW RUSSAR + 20mm F5.6 を試す
NEW RUSSAR + を試用しました
あれは2013年のこと。当時存在したロシアZENIT(旧KMZ:ズヴェーレフ名称クラスノゴールスク光学機械工場)のアーカイヴサイトを見ていたら、M39ライカスクリューマウント距離計連動式カメラ用超広角レンズのRUSSAR(ルサール)MR-2 20mm F5.6がZENITAR MR-2として少ロットで再生産され、ロモグラフィーから発売されるむねが書かれていて驚き、ここに記事にした。
あのRUSSAR MR-2だ。距離計には非連動の対称型光学系を持ち、ゆがみの少ない非常に薄型のライカスクリューマウント超広角レンズのあれだ。20世紀終わりごろのソビエトカメラブームのころにも、探さないと入手できなかったあのレンズだ。
ここでいう「ルサール」とはオリガルヒであるオレグ・デリパスカの世界的なアルミニウム生産会社「ロシアアルミニウム(Русский алюминий ; РУСАЛ)」のことではない。ミハイル・ルシノフが1957年に設計したM39(ライカスクリュー)マウント用超広角レンズのことだ。
伝説的な名レンズではあるが、それが復刻されるというのだ。1957年のレンズが2013年に。
ツポレフ134 (ジェット旅客機)やジグリ(ソビエトの国民車)がそのまま復刻されるような、そんな気分がした。あるいは「原稿は燃えないものです」(ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』の名セリフ)とか。
そうこうしているうちに、2014年の夏ごろには日本のロモグラフィーからもNEW RUSSAR + として復刻されることが発表され、いつごろ出るのかとわくわくしたものだ。
そんなことをすっかり忘れていたところ、その復刻版のロモグラフィーバージョンであるNEW RUSSAR +を試用させてもらう機会を得た。このNEW RUSSAR + についてはリンク先であるデジカメWatch(インプレス)の2015年11月27日付当該記事『ロシアより愛を込めて復刻! ロモグラフィーNew Russar+ 20mm F5.6を試す』をご覧いただくとして、ここにはもう少しチラシの裏的なことを記したい。
1950年代なかばから1960年代はソビエト技術史には最大瞬間風速が吹いた、かも
RUSSAR MR-2の設計は1957年に始められ、1958年より製造がはじまったようだ。設計したミハイル・ルシノフはいかにもソビエト・ロシアのインテリゲンチヤのひとりのようで、両親ともに教師の家に生まれ、母親はピアニストであり、一族は作曲家として知られていたという。
このRUSSAR MR-2の登場したこの1950年代なかばというのは、ソビエトの黄金時代ともいえる(*1)。政治史的にはスターリンの死(1953年)のあとの権力闘争で勝ち抜いたフルシチョフによって行われたスターリン批判(1956年)により、「雪解け」とよばれる個人崇拝の否定とわずかながらの自由化が始まるころにあたる。
この時代は、筆者が指摘するまでもなく、スプートニク1号の打ち上げ(1957年)やガガーリンの有人飛行(1961年)が象徴するような、ソビエトの科学技術や文化にとって「最大瞬間風速」が吹いた時代だった。私たちが親しんでいるカメラなどの光学機器の分野でも、ドイツ製品の模倣から一歩踏み出して独自のカメラ・レンズが生み出されはじめた時期だ。
ちなみに日本もその点は似ている。ドイツがまだ本格的には戦前の水準を超える工業製品を生み出せなかったためでもあるだろうか。だが、皮肉にもそれはスターリン時代に無理やり進められた重化学工業化の成果が一気に花開いたといってよい。そして、ソビエトで開きかけた「花」はフルシチョフの失脚(1964年)後に訪れた停滞の時代に、米ソの軍拡競争に負けてふたたびしぼんでしてしまうのだが(*2)。
光学系は変わらないみたい
さて、NEW RUSSAR + の基本的な光学系や構造は、オリジナルであるRUSSAR MR-2と変わらないように見受けられる。硝材に差があるのかどうかは不明。ただし、コーティングはことなるようだ。また、外装は真鍮製でクロームメッキが施されている。アルミ外装のシルバーモデルよりもずっとしっかりしている。
そして、周辺光量落ちを緩和するためか、前後のレンズの支持部の形状がことなっていた。さいしょは、レンズの曲率がことなるのかと思ったものの、そうではないようだ。
35mm フルサイズでは強烈な「トンネル効果」に
光学系が変わらないということは、やっぱり……案の定というか……デジタルカメラで用いると強烈な周辺光量落ちと色ずれが起こる。
これはイメージセンサーのカバーガラスの影響を受けるようで、機種によってちがいがあるらしい。とくに、色ずれ(カラーシフト)に関しては35mmフルサイズセンサーを用いたカメラではかなり強く見受けられるようだ。筆者がお借りしたSony α7IIではこうだった。さらに、周辺部には像の流れもある。Sonyのαシリーズだとそうなるみたいなんだよ。ただし、それ以外の35mmフルサイズボディで試していないので、ほかのボディとの組み合わせは私にはわからない。
これはもう、残念ながら「そういうものだ」と思うほうがいい。APS-Cサイズセンサーを備えたエプソンR-D1シリーズやリコーGXR で用いても周辺光量落ちが強く出ることはすでに既知だった。
これはフィルムとイメージセンサーの特性のちがいによるものだ。スーパーアンギュロンやNikkor-O 2.1cm F4 などの、対称型の光学系を持つレンズではやむをえない。なお、ゆがみのなさはみごとだったことは記しておきたい。凸レンズを追加するとか、いろいろな方法はあるみたいね。
ピント合わせはけっこうむずかしい
NEW RUSSAR + を最初に撮った日のカットを見て驚いたのは、ピント合わせのむずかしさだった。α7IIとの組み合わせではそうだったのかもしれない。超広角レンズとはもともとピント合わせがむずかしい。被写界深度の深さに惑わされるからだ。
さらに、NEW RUSSAR + のピントリングはとてもスムーズで、はずかしながら無限遠方向とまちがえて最短撮影距離方向にピントリングを回していたことも多い。これは筆者が……視力が衰えているから。みとめたくないものだな……。そこで、お借りしていたα7II ではピントを確認しつつ拡大して撮影した。
フィルムで使うか、モノクロで撮るのもいい
もしお手元にライカやライカスクリューマウントのフィルムカメラがあるならば、フィルムで撮るほうが楽しめるかもしれない。なにしろずっと新しいのだ。傷んだオリジナルモデルのMR-2よりはずっと安心して使えるだろう。
そして、周辺光量落ちと色ずれはデジタルカメラで撮るのとはことなり、フィルムカメラであればずっとめだたない。あるいはモノクロで撮るのも楽しい。
いずれにせよ、クラシックな描写をのんびりと楽しむ、そんな用途に向いているのだろう。いまふうの、画面端まで光量が落ちずに、四隅までぴしっとピントが来るようなレンズが好きな人に向いているレンズはほかにもたくさんあるのだから。
*1ソビエトの黄金時代:ソビエトの1960年代前後というと、筆者はいつもダネーリヤ監督の映画『モスクワを歩く』や『モスクワ郊外の夕べ』という歌を思い出す。後者のリンク先はクライバーンの弾くアレンジ。これはおそらく、筆者の学生時代の先生たちがまさに1960年代の世代で、さんざん聞かされたから。シェスチデシャートニキとよばれるこのひとたちがのちの1980年代後半から1990年代のペレストロイカとソ連解体の原動力になったそうだ。この映画にあふれるオプティミスティックな雰囲気はとても魅力的だ。
なお、映画のエンディングに出てくる主人公(映画監督のニキータ・ミハルコフ!)が歌っている地下鉄駅はモスクワ大学のあるサコーリニチェスカヤ線ウニヴェルシチェート駅(1959年1月12日開業。1953年にレーニン丘のモスクワ大学本館ができたあとに開業)で、筆者もさんざん乗り降りしたために思い出深い。おそらく、2025年のいまでも大きく変わらない。
*2フルシチョフの失脚後の停滞の時代によって鈍化してしまうのだが:フルシチョフがもし失脚しなくても、ソビエト体制のままであればけっきょくは停滞の時代は来ただろう。というのは、フルシチョフの時代にはポーランドのポズナン暴動介入未遂(1956年)やハンガリー事件(1956年)、ベルリンの壁の建設(1961年)、キューバ・ミサイル危機(1962年)、あるいは中ソ対立があったわけで……スターリン体制の権力闘争を勝ち抜いてきたフルシチョフはついぞソビエト体制を越えることはなかったのだから。これはもう想像の世界でしかない。
【おことわり】
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