エルリッヒ・マリア・レマルク「凱旋門」
遂に入手できた、と言っても図書館から借りたのですが。読みたかったのだけど、実に入手しづらい本でした。
図書館に行き、書庫から出してもらったものが紙が茶色に焼けた年代物でとても読むに耐えませんでした。
「他の図書館や他のバージョンはないですか」
と訊いたらレファレンスに行けと言われました。そちらで調べてもらったらなんと寄贈本の河出書房版1960年発刊の世界文学全集別巻7がそれだと言われ、書庫から出してもらいました。
紙の経年劣化はほとんどなく、印刷はかつての植字によるものなので古いけど(かすれもあって、懐かしさがいい感じ!)。函はないですが、外観も古さを感じさせない清潔感あるベージュのハードカバー、大きさもA5版と扱いやすい……
「凱旋門」はこうでなければ。待っただけの甲斐がありました(泣)
第一次世界大戦から第二次世界大戦当時のパリを描いた小説はどれもこれも好きです。人々が信じることに対して命をかけている姿が見られるから。
この作品の舞台は第二次世界大戦前夜のパリ。ナチの迫害から逃れた優秀な外科医ラヴィックが復讐を遂げるまでの物語。
「戦争が終わったら、フーケーで会おう」
このセリフ、僕が十九、二十歳の頃、ラジオから聞いたものなのですが、ずっと心に焼き付いて離れなかった。多分、そのラジオはNHK-FM「クロスオーバーイレブン」のMCだったと思います。なんて格好のいいセリフなんだ、と大人になりかかろうとしていた僕の心を捉えて離さなかったのです。
———このセリフは一体なんのセリフなんだろう?
映画か、小説か、はたまた詩かあるいはインタビュー……ずっとわからないままだったのですが、インターネットの検索機能のおかげでレマルクの「凱旋門」のセリフだと分かりました。
「凱旋門」は昔新潮文庫で出てましたが、当時はこのセリフがここにあるなんて知りませんでした。実は、世界の名作ということで読みたかった本でしたが、当時、長編、翻訳アレルギーであり、読めないまま見過ごしていました。
やがて、この文庫は書店から消えていました。
ともかく、ようやく手にしたこの本、味わえました。
……
ベルリンで友人の国外逃亡を守ったために当局に捕まり、拷問を受け、恋人を殺されたラヴィックはパリに逃げ込みますが、全てに絶望し、自分の人生に対しては自棄になっていました。
しかし、ベルリンの一流医院の外科部長としての腕を持つ彼は、医師としての倫理まで失っていなかったのです。
彼の死にゆく者への優しさは一様ではありません。表現もまるで別人のように極端です。とにかく、苦しむ人々に対する優しさに溢れているのです。
ベルリンから逃げ、パリに隠れたものの見つかって追放され、スペインで医師として仕事をしますが、再びパリに戻り、また追放され、スペインへ……三たびパリにいます。
変名を使い、外科医としてのその類い稀な能力を奮い続けていますが、ベルリンにはいつ戻れるのか……平和は来るのだろうかと不安は募ります。
拷問、そして巻き添えとなった恋人の自死。
「ぼくには不安というものは、もうのこっていない」(p178)
子宮の病で入院したケートは実は癌を患っていたが、小康を得る。入院して、歩くこと、呼吸するという単純なことの値打ちを知る。
ラヴィックは言う。「……ただ単純なものだけが、けっしてわれわれを失望させないのだ。それから、幸福はどんなに低いところにもあるんだよ」(p169)
敵であるルヴァルへのオペシーンは圧巻です。
ラヴィックの暮らすオテル・アンテルナショナールの避難民たちの制裁与奪権を持つ男。ラヴィックはルヴァルによって死に追いやられたアンテルナショナールの住民たちの悲劇を思い出しながら、メスをふるうのです。
ラヴィックはルヴァルに医師としての義務を果たしました。
しかし、そのルヴァルによってラヴィックは追放される。ルヴァルはラヴィックによって命を長らえたことは知る由もありません。
三ヶ月後にパリに戻ってきたラヴィック。ヴェーベルの病院に行き、即手術をやらせてほしいと頼み、虫垂炎の手術をします。
メスを使い始めた途端、彼は「帰ってきてからはじめていま、自分にかえったように感じる」(p 244)。ラヴィックにとっての本当の彼は、外科医としての彼なのです。
女優ジョアンとの不毛な愛に心が振り回されるラヴィック。彼女のことが好きなのだが、愛し合っても仕方がないとの絶望感にまとわれるラヴィック。そんな彼に翻弄されるジョアンとの奇妙な愛憎劇が、後半の重要なストーリーとなります。
フーケで偶然ハーケを見つけ、なんと同席する羽目になる。ハーケはラヴィックについて気がついておらず、同邦人として話をし、次にパリに来た時に会う約束までする。
そして、ラヴィックは復讐を果たす……しかし、それはラヴィックを救うことにはならなかった。無意識に抑圧していたハーケによって殺されたシビールの思い出が蘇っただけだった。
そして、恋人に撃たれてジョアンは死ぬ。
ドイツとフランスは戦争状態に陥り、ラヴィックたちオテル・アンテルナショナールの避難民たちはフランスの収容所に送られることになる。アンテルナショナールでの親友、ロシア人ボリス・モロソフとの別れ際にラヴィックは言う。
「いいとも。戦争がすんだら、フーケーでまた会うよ」(p462)
……ようやくこのセリフに出会えた。40年以上かかったことになります。
かつて、別れなければならなくなった恋人に対して再会を役するための台詞だとばかり思っていたのだけど、違っていました。
それでも、いいセリフだと思います。
エトワールの大広場は絶望と希望と焦燥の象徴となって作品に登場します。そこに立つのが凱旋門。
収容所に連れられていくトラックの中から凱旋門は灯火管制のため見えなかった……と物語は終わる。
ハッピーエンドではないですが、「フーケーで会おう」のセリフに希望が感じられました。
以上、感想というのかポイントでした。胸を打つ素晴らしい小説です。こういう小説こそ、次代に残すべき文芸だと思いました。