伝承の日本史10 〜大彦と物部の宗教対立
宗教戦争
7代フトニ(孝霊)が吉備に去ったのちのヤマト磯城王朝は衰えた。磯城兵士は一部は生駒、一部は山城国の南に移った。
175年、「いわゆるウマシマジ(実名ではない)」勢力がヤマトに侵入すると宗教戦争になった。
物部勢力は2神像の浮き彫りがある鏡を木にかけて祈る祭り。ヤマトの住人にも強制した。鳥見山にあった登美家の祭祀場を占領し、磯城王朝が三輪山祭祀を行うのを妨害した。
『古語拾遺」の中の記載に、内物部が盾と矛を作り備えた。神鏡と真剣、勾玉の首飾りを正殿に備えた。供え物を陳列し、大殿祭りの祝詞を唱えた、とある。
ヤマト内部は分裂、高鴨(神門臣)と尾張の一部が熊野側に付いた。
フトニの次に王になったのは8代クニクル(孝元)。物部氏の娘・ウツシコメを妃に迎え、ヤマト騒乱を収めようとした。
1世紀の後半、クニクルは登美家のクニアレ姫を妃にした。
クニクルとクニアレ姫の間に、大彦、大日々、百襲姫ができた。
大彦は反物部で、銅鐸祭祀の抵抗を続けた。(記紀には、大彦の母が物部ウツシコメと書かれているのは意図的か)
百襲姫は三輪山の姫巫女になった。そのポストは登美家か磯城家しか就けない決まり。
磯城王朝は大彦と百襲姫を中心に物部勢と宗教対立。
大彦は葛城笛吹村の東北・曽大根で育ったので、中曽大根彦という別名あり。
→ 「ナガスネヒコ」はここから創出されたか
大彦勢には初代大王・海村雲の尾張一族が加勢したことから、物部との対立は激しくなったが、数年間の混乱の末、大彦勢は弱体化し、物部優位となる。
大彦の退却
大彦勢力は力を持っていたが、物部軍にハニヤスヒコが加勢し大彦勢を襲う。
(→ 大彦の異母兄弟?クニクルとハニヤス姫の間の子とホツマに記載あり)
大彦は彦クニブク率いる軍勢に助けられて命乞いをした。
(→ 記紀では和邇氏の祖としている)
大彦は183年(後漢の光和年間)頃、北を目指して総退却したが、それ以降の大彦を、記紀は「賊」として扱っている。
大彦は出雲富家を誇りとし、トミ彦と名乗ったこともある。
大彦は八重波津身(事代主)の妃・沼川姫にちなんで、息子にヌナカワワケ(沼河別)と名付けた。
(→ 謎ポイント。突然出てきたヌナカワヒメは越国。事代主はタマヨリヒメ本妻。ヌナカワヒメは別妻か?)
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りーかお古代史雑記 ・(1)饒速日、徐福、富士王朝のメモ
古代日本に何があったのか。マニアックな本を紐解きつつもアウトプットしないと整理がつかないので、逐次のメモ&解説です。 一般的な古代史研究に…
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