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ビビりながらでも自分らしく生きたいなぁ


主観で推測ばっかりでロジックなんて気にしないで書き殴ったnote処女作、1分ちょいで読める量です。

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ふと「安心を何から得ているのか。得ていくのか。」って考えていた。

私は自分に自信がない。「自己肯定感」というキナ臭いワードが足りていないらしい。そして、そんなできた人間でもないから、人生ハードモードの人(本人はそう思ってないとしても、主観でそう思いたいだけ。)を見て、「こんな自分でもまだマシなんだ。」と少しばかり安心する。自分だって脳おかしいくせに。


自分より下がどこかに存在するということにして安心したいんだ。この本音を隠して生きているのかもしれない。なかなか「良い人」にはなれなさそうだ。他の人はどうなんだろう?


<参考記事>

・東大教授・安冨歩はなぜ「男装」をやめたか〜女性装をしてみたら、私と世界はこう変わったhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/47518

思考が鈍くなる。そんな記事でした。

正確には、思考を続けると自分の汚い部分を認めなくてはいけない現実が待っているって分かっていたからだ。


倫理、道徳といったものはどこかで自分を優位に立たせ、認めるために昔から無縁者を利用してきた。

古くでは、日本ではえたひにん、アジアではシュードラとかアンタッチャブルとか。ヒエラルキーにも入れない人が存在することで、今の自分はまだマシなんだ、とどこか安心する。これは一揆や反乱、革命の抑止力にもなる仕組みだろう。

現代ではLGBT、障碍者などだろうか。


私は視力がとても悪い。実生活に支障が出る。これは障害とも言えるのではないだろうか?

しかし、眼鏡・コンタクト・レーシックといった技術の登場で「目が悪い=障害」という概念はない。

それどころか市場が生まれている。


そして、LGBT。色物扱いだったのに、芸能界の影響か一種のブランドになってきている側面がある。本人たちはそっとしておいて欲しいかもしれないのに。

やはり、人材業界においても市場が出来始めている。


障碍者に関しては、アメリカでは才能の塊として専門教育機関があったり、義足のオリンピック選手が生まれたり、脳波から言語を打ち込める技術が発達しはじめている。

健常者との差は技術により消えていく。むしろ、ADHDやサヴァン症候群を使いこなせる人達は組織運営側に回ったりすることもある。


えたひにんが消えていっている。


平等を謳った結果、地位や名誉で守られていたアイデンティティが失われる。だったらどうすればいい?

自分で創ればいい。

それをどこに創る? 現実なのか仮想現実なのか。


現実で創る人はアーティスティックで魅力的。その分批判される。

明石家さんまさんは好きな芸人ランキング1位・嫌いな芸人ランキング1位だそうだ。


自分らしく生きることはちょっとばかし勇気がいりそうだ。


だからこそSNSが隆盛しているのではないだろうか。

自分という「アイコン」を操る偶像崇拝。

匿名Twitterでは「キョエェェェェエエエエ!!!!!!」「おっぱいだなぁ」とか平気で言えるのに、本名Facebookで言えるだろうか?

このnoteも匿名でやろうと思ったけれど、本名にした。アイコンは顔にできない。そんなことにもビビってしまう弱い人間だけども、少しずつでもいいから自分らしく生きたいなぁ。

もちろん、リテラシーや情報リスクの側面から匿名にすることも大切。


また、Twitterがfavorite機能(☆)からlike機能(♡)に変えたのは、より気軽に反応が貰える仕様にすることでユーザー増・ユニークユーザー化を見込んだからだ。

すると、ただの一元的な反応では満足しなくなってくる。

そう、Facebookの反応6パターンはその流れではないだろうか。

マイナス評価っぽく見える「ひどいね」ボタンが出来たことで、批判を恐れ、見られ方を一層意識し、猫をかぶる。やっぱり♡貰えると嬉しい。


自分が本当に言いたい事がストレートに言えない。あの手この手を使って言う事はできるだろうけど、オブラートを何枚も重ねた結果、受け取る側には真意まで伝わるのだろうか。

日本的な「行間を読む」「隠喩」という文化を強く感じるが、本来の愉しみ方とはズレてきているような気がしている。

だから音楽フェス参加人口が年次増えていると思っている。

自分の想いをアーティストの言葉に乗せて叫んでいる。

なんだか、フロイトのストレス防衛機制の「同一視」「投射」をしているように思える。「昇華」はしないのかな。



僕たちはどこへ向かっていくのだろう。




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