ジャック・デリダ/脱構築
ジャック・デリダっていえば、今や現代思想における難解な哲学者の代表選手みたいになっていて、その著作は膨大。それを読むのは知的興奮に満ちた刺激でありながらも、かなりしんどくもある。
でも、それもそのはずでデリダは、デリダの伝家の宝刀である脱構築(ディコンストラクション)で現代を片っ端から読み替えているわけで、読み替えゆえにネタは無限にある。つまりゴールなんかないのだから。
そもそも、デリダの脱構築とはなんなのか?
ざっくりといえば、ボクたち人類は言葉でモノを考え、言葉で社会をつくっている。でも、その言葉自体に、ことにヨーロッパ中心主義の西洋近代の言葉には、権力やらその文化特有の思想(たとえばファシズム、たとえばいびつなジェンダーとか、その他etcとかね)が組みこまれているのだと。だから、純粋に思考するためにはそれらを解体してゼロから考え直さなければならないと。
そりゃあ、著作が膨大になるわけだけなんだけど、さて、このデリダに晩年、めっちゃ共感したのが我が国が誇る言語学者にして東洋哲学のハンパない大家である井筒俊彦センセだった。
言語学者である井筒センセが生涯追いかけていたのは言語になる以前の得体の知れないものだった。阿頼耶識(アーラヤシキ)。実は東洋思想においては、西洋思想が、たとえば西洋の言語学のスタート地点というべきソシュールがたどり着いた見地には、遥か昔からたどり着いていた。それはもちろんどっちが優れていたとかいう、そんなツマラナイことではなくって、長い歴史の中で思考の順序が違っていたっていうべきで、ここで融合することこそが、新しい知の冒険がはじまるって思えてならない。うん、ならないんだなぁ。