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本が(なかなか)処分できない
本に埋もれて生き、本に埋もれて死ぬ、古の読書家がそんな言葉を残している……のか、知らない。
まあでも、本を部屋一杯に溜め込んで、アパートの床が抜けたなどというニュースなら見たことがある。たしか階下の人は無事だったはずだ。本で埋もれて死ぬのが当人なら自業自得だが、赤の他人ならこれは傍迷惑どころか大災難である。
まったく他人事ではない。というのは、もちろん、下の階の立場で言っているのではない。
物心ついた頃から、書物が傍にあった、そしてずっと本を読んできた、本の虫であった。山にハマって毎週末に山、仕事帰りにはクライミングジムに通っていた頃も読んだし(本棚から文芸関係が一掃され、山の本ばかりになった)、山を止めて酒場通いが始まっても、必ず読書時間は確保した。
本など読まずに勉強していれば、あるいは仕事に打ち込んでおけば……と思わないこともない。
肉体は哀し
ああ、我は万巻の書を読みぬ
北アルプスを縦走したり、谷川の岩壁を攀じ登ったり、丹沢の沢を遡行したり、他にも色々経験しているから、「肉体は哀し」などとは全然思わない。読書体験は何ものをも残さないということを言いたいのであれば、書斎に閉じこもっている詩人は知らないだろうけれど、肉体的な冒険もまあ何も残しませんよ。では、書く方はどうかと言えば、やっぱり残らない。仮にノートやwebページの片隅に切れ端が残ったとしても、誰にも読まれなければ存在しないも同然であるし、万が一誰かの目に止まったとしても瞬く間に忘れ去られるにちがいない。
いや、本の話でした。読書というものは実に厄介で、興味の幅がどんどん広がると、あれも読みたい、これも読みたいと収拾がつかなくなる。新刊は高いが、ゾッキ本は恐ろしく安い。新古書店の登場で、新刊同然のピカピカの本もお得に買えるようになった。そして、amazonのない時代、古本というものは、今ここで買わなければ次にいつどこで出会えるかわからない、まさに一期一会の出会いであった。さらに買うスピードに読むスピードが到底追いつかない。するとたちまち、部屋が足の踏み場もなくなる。
学生の頃は、読んだ本は片っ端から段ボール箱に詰めて実家に送った。やがて郷里から、もう送ってくれるなと悲鳴が聞こえてくる。書庫のあるような一軒家で暮らせる身分ではないから、選択肢などない。引越しなどをキッカケに売る、売れないモノは捨てる他ない。売れない方が圧倒的に多いのは、言うまでもない。
溜め込み症(専門的には強迫的ホーディングという)といって、モノを捨てられない人がいるが、どうやら自分にもその気があるらしく、油断すると大変なことになることはわかっている、というか、何度か経験している。だから泣く泣く捨てるのである。
二十代で「いつか読もう」と思って購入して早ン十年の積読、こういう本は興味が移ってしまったので、もはや読みたいとも思わない。薄情なことに(読んでないから、当然とも言えるけれど)思い入れもとくにないのである。しかし、だからといって簡単に捨てられるとは限らない。今興味がなくても、いつまた読みたくなるかわからないのだ。まして何度も読み返したような愛着のある本など、断腸の思いで古書店に売る、もしくは資源ゴミに出すのである。
そんなの自分にとって、Kindle購入が気持ちの切り替えなった。まだまだコンテンツは充実していないけれど、紙の本はもうこれ以上いらないやとまで思っている。
つい先日も資源ゴミの前夜に本を縛って集積場に出しておいて、床についてコトンと眠りに落ちた……と思ったら、不意に目覚めガバッと身を起こす。そして、パジャマのまま集積場まで走って、一冊の本を救出した。
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アラン=フルニエ『モーヌの大将』。やっぱりこの本は捨てられないやね。学生時代に大学通りの古書店で購入した。
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内容は……あまり……いや、全然覚えていないが、捨てられないということはきっと良い小説だったはず。出会いと別れ、せつない青春みたいな(空想です)。後に、岩波文庫で『グラン・モーヌ』のタイトルで新訳が出た。
同時期に同じ古書店で購入したのが、アンドレ・マルローの『侮蔑の時代』。これも戦前の本で伏字が多くて驚かされた。「××党」とか、「××××主義」とか、伏字にする意味あんの?って感じで。
××党の××××主義者がファシストと戦い、ミッションコンプリートして、暖かい家族の元へ帰るみたいな話だったような(曖昧)。残念ながら、いくら探しても出てこないので、これは捨てたのかもしれない(マルローの翻訳はありとあらゆる版で集めいたので、そんなはずがないと思うのだが)。ご紹介できなくて残念です。
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サルトル、好きだったなあ。これらは親の本棚から持ち出したもの(盗んだともいう)。死ぬ前に『存在と無』と『家の馬鹿息子』(このタイトルがぐっとくるんだよなあ)ぐらいは読んでおきたいのう。
村上春樹とか吉本ばなながベストセラーを連発していた時代に、どんな読書傾向だよ?と思わないでもない。
最後に未読のもの。
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右からモンテルラン二冊、ルイ・アラゴン、ドリュ・ラ・ロシェル、もうとっくに(それどころか当時ですらも)忘れ去られた作家たち。一番左が『毛虫の舞踏会』というフランス短編のアンソロジー(昭和18年刊)。いずれも学生時代に購入。社会人になってからは、さすがにこの手の本を買わなくなった。いくらなんでも浮世離れし過ぎている。
これらの本は未読のまま墓場まで持っていくしかないのか……。棺に入れて、一緒に燃やしてくれ。
(了)