かんやん
ささやかな日常の雑感、備忘録
連載小説。ネコ虐待やらゴミ屋敷やら。暗いです。
アルコール依存にまつわる連作小説です。
中高年の自己流健康志向エッセイ。体が資本だ。
掌編というには少し長めの作品集。
ゴミ屋敷をテーマ(?)にした小説を書いた。 もう何年も昔の話になるけれど、川沿いのジョギングコースにゴミ屋敷があった。元は酒屋でビールケースやゴミ袋が山積みになり、空き瓶が道路にまではみ出して並べてある。通り過ぎる度に、どんな人が、どんな風に暮らしているのだろうかと気になったものだ。 自分も又、油断するとゴミ屋敷の住人になりかねないという話も書いた。 作品を書くためにゴミ屋敷や溜め込み症について色々検索していて知ったのがコリヤー兄弟(Collyer brothe
本に埋もれて生き、本に埋もれて死ぬ、古の読書家がそんな言葉を残している……のか、知らない。 まあでも、本を部屋一杯に溜め込んで、アパートの床が抜けたなどというニュースなら見たことがある。たしか階下の人は無事だったはずだ。本で埋もれて死ぬのが当人なら自業自得だが、赤の他人ならこれは傍迷惑どころか大災難である。 まったく他人事ではない。というのは、もちろん、下の階の立場で言っているのではない。 物心ついた頃から、書物が傍にあった、そしてずっと本を読んできた、本の虫で
あれほど熱中していた真夜中のジョギングを夫がパタリと止めてしまったことに、悠子は驚きもしなかった。どのみち夫のやることなすこと一切に関心がない。ちゃんと服薬して、禁酒が続いていれば大きな問題はないはずだ。実のところ、このところ夫はとくに何もしていやしない。一階のリビングのソファーに両親と並んでテレビを観ていることが多くなった。照明を落とした廊下に明かりと音が漏れてくる。 外に干したままの洗濯物がバリバリに凍ったり、出勤前に車のフロントガラスが凍結するような季節になって、
あの頭のおかしくなってしまった村木から、なんとか伊達を救い出す手立てはないものだろうか、平凡なサラリーマンの山形淳が始終そんなことをニッチ想いを巡らせていられるはずもなかった。彼には責任があった。社会人であり、何より先ず父親であった。そして、夜更けにはランナーになった。 週日の朝には市の中心部にあるオフィスへ自家用車で通勤し、丸一日端末に向かってもくもくと入力作業を続けた。休日には胡座をかいて娘を太ももの間に座らせて絵本や童話を朗読してやった。それらの本は他ならぬ淳自身
村木が前を向いたまま訊いた。「山形だろ、杉高の?」 それはまったくびっくりするほど常人の当たり前な口調だった。 「うん」 「一体、何があった?」 そう言ってにじり寄ってくると、饐えた臭いが漂ってきて、思わず反対方向へとずれる。 「それはこっちのセリフだよな……」 「両親はとっくに亡くなってね、店も閉めたよ。量販店にはかなわないから。それで山形は?」 淳の反応を楽しんでいるのか、さらににじり寄ってくるが、もう端っこに達してこれ以上逃げることができない。 「
「また猫の死体が見つかったそうじゃないか、今度は隣町だ」 スーツに着替えて食卓についた淳は、朝刊を手に取って広げるなり妻に知らせた。夢が現実になったようで居心地が悪いが、元はと言えばニュースの方が先で夢に影響を与えたものである。 「そうなの」オープンキッチンで忙しそうに立ち働きながら、無関心に悠子は言った。 「これも近所のバケモノ夫婦の仕業なとでも言うのか?」 「さあ、そんなこと知るわけないじゃないの。模倣犯かもしれないし」 「一体何のためにこんなことをするのか、
今年のノーベル文学賞は、韓国のハン・ガン氏に決定した。韓国人初、アジア人女性初の受賞だとか。 図書館で借りて一冊だけ読んだことがある。『菜食主義者』。国際ブッカー賞を受賞した連作短編集。 2017年に読書メーターに感想を書き留めていた。 なになに……。 馬鹿もーん! なにを上から目線で批評しとるんじゃ! 別にアンチフェミニストではないけれど、父親や夫、その同僚たち(♂)の描き方がステレオタイプだと思ったようだ。しかしですね、必ずしも暴力的ではなくても、高
老いた父が幼いみどりの手を引いて散歩に出る、その筋肉の落ちて猫背気味のポロシャツの背中をぼんやりと息子は眺めていた。時折かがみ込むようにして何事かやさしく孫娘に囁いているが、なんとなく跡をつけるように距離を置いて歩いている淳にまでは声が届かない。曇天の日曜日の昼下がり。 衰えてゆく父と育ちゆく娘。しかし、その成長は順調とは言えない。 来年は小学校へ上がるみどりは、発声器官には問題がないと診断されているが、ほとんど言葉を発したことがなかった。それでも、聡明に澄んだつぶ
先に夕食をとってしまうと、走る気力が失われてしまうから、残業で遅くなってもオフィスではプロテインバーなどで空腹をしのいで、帰宅すると着替えて先ず走るようになった。走る距離も時間も少しずつ増やしていって、家にいるのはほぼ睡眠時間だけになる。戻ってからシャワーを浴びて、味噌汁を火にかけお菜をレンジで暖め直し、遅いニュース番組でも見ながら、ひとりで夕食となる。晩酌はしない。 実家に戻るずっと以前、淳が適応障害と診断されて前職を辞める前から、夫婦の営みは絶えていた。もう悠子の方
平凡なサラリーマンの山形淳は、三十半ばを過ぎて走り始めた。健康診断の結果が思わしくなく、年々増加傾向にある体重をどうにかしたかったというだけではなく、体を根本的に鍛え直して、いつかフルマラソンにでもチャレンジしたい。目標もなくただ漫然と走るのでは続かない。 結婚して子をもうけ、色々あったけれど、今のところ仕事もまあ順調で、そうしてこのままゆっくりと静かに老いてゆく、そう考えると感謝の念に満たされるどころか、なんとなくうっすらと憂鬱な気分になってくる。走ったからといって、
メルヴィルの『バートルビー』を読んだ。押入れに積んでる文学全集の類いのゾッキ本をごっそり始末しようと縛っているうちに、捨てる前にせめてこの名高い中編小説くらいは、と思ったのである。 ウォール街の法律事務所で働く(いや、働かない)バートルビーというまだ若い代書人の話である。 語り手はバートルビーの雇用主で、「若年の頃から、もっとも気楽な生き方こそ最上の処世法とする深い信念にみたされてきた」と自己紹介している。「わしを知っている者ならみんなわしのことを抜群に『安全な』男
『百年の孤独』が文庫化され、爆発的に売れているらしい。たしかに都心の大型書店でもコーナーができて山積みになっている。 ずいぶんと昔に読んだ作品だけれど、(内容以外で)色々と思い出されることがあるので、これを機に書いてみたい。ほとんどネタバレなし、というか内容をほとんど覚えていないので(ずいぶんと昔に読んだものであるがゆえに)、ほとんどネタバレの仕様がない。 海外の、それも長編文学作品がベストセラーになることは珍しい。また、そういう超話題作に限ってなかなか文庫化されない
そういえば、子どもの頃にはペット(PET=ポリエチレンテレフタラート)ボトルなんてなかった。食卓には急須の緑茶、夏は冷蔵庫に作り置きの麦茶、水は水道水。お茶を淹れるのも、カルピスの原液を薄めるのも水道水。お金を出して出来合いのお茶を買うということはなかったし、まして店や自販機で水を買うなんて考えられなかった。そもそもそんなもの、売っていなかったし。 今は、天然水、ミネラルウォーターをペットボトルからグラスに移して、氷(これも購入したもの)を浮かべて呑んでいる(それから、
ホラー映画というものを、わずかな例外(ジョーダン・ピール、アリ・アスターは気になる)はあるものの、ほとんど観なくなってしまった。そういうジャンルにもはやスリルを求めていない。 幽霊だの、お化けだのは卒業したし、ゾンビには飽き飽き。かつては悪魔モノが好きだったけれど、やはりもうネタ切れ感がある。若者向けのスプラッターやスラッシャーなどは論外だ。 その一方で、未だにヒトが動物(モンスターではなく、サメやワニ、猛獣など。恐竜を含む)に襲われて食べられる映画をついつい観てし
若い頃、ということは遠い昔、レインボーブリッジだか、ベイブリッジだかができたとき、そこを歩いて渡れるというので、仲間と出かけたことがあった。今思えば、モノ好きにも程がある。 よく覚えていないが、エレベーターで車道沿いの遊歩道まで上がったように思う。で、1キロぐらい(?)てくてく歩いて、橋上からどんな景観が広がりどんな想いを抱いたのか、全く記憶にない。渡り終わったら、反対側でまた満員のエレベーターで下に降りるのである。 今や絶滅危惧種であるエレベーターガールが何か話し
二泊三日の縦走登山を終えて、単線のローカル線から東京方面への特急の連絡がうまくいかず、途中の乗換駅で二時間ほど足止めを喰らった。盆休みのUターンラッシュに、前日に首都圏が台風で荒れて特急が運休した影響が重なって、予約がなかなかとれなかったのである。 時刻は午後三時、指定席を購入した臨時特急までおよそ2時間の待ち時間。 くたびれ果てていたけれど、腹はとことん減っていた。山小屋で朝飯を食って以来、プロテインバー以外何も口にしていない。とにかく途中下車して腹ごしらえしよう