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地獄の女鍼灸師

 週に一度、夜勤明けの午前中に鍼灸院に通うことになった。 

 駅前の雑居ビルの5F、エレベーターから降りると玄関と受付があり、そこから先はカーテンで仕切られたスペースにそれぞれ簡易ベッドが一台ずつ、ズボンを脱いで用意されたベージュのスウェットパンツに履き替える。上半身は裸だから、いつも上の着替えまで用意されてる理由は不明である。

 ベッドにうつ伏せに横たわり、クロワッサン型の枕の凹部に顔を凸部(鼻)を合わせる。

 担当の田中先生は、マスクで顔を隠した年齢不詳の女性であるが、真っ黒なツインテールは間違いなく染めている。決まって、「準備できましたかー?」と訊きながら、返事を待たずに水色のカーテンを引いて入ってくる。それから、うつ伏せのままのこちらのパンツをずり下ろし、半ケツ状態にされる。おっさんのケツの割れ目など見ても楽しくはないだろうに。いや、そこは鍼を打つときだけ下ろせばいいじゃないと痛切に思われるのだが、なぜだか言い出せない。

 最初のうちは会話がある。
「どうして、こんなになるまで放置していたんですか?」
「いや、なんか調子悪いな、眠れないなと思ってたぐらいで……そうか、肩凝りがずっと慢性状態で、肩が凝っていることにすら気がつけていなかったとか。先生、一体全体肩凝りって、何なんですか?」
「肩凝りの凝りが何なのか、実のところ今でもよくわかっていないようです」
 はん、しょせんは東洋医学か、民間療法か。後でググっときますよ。
「欧米人には肩凝りはないんでしょうかね。彼らは肩が凝ったら、病院は何科へ行くんだろうか」
「欧米にも鍼はありますよ」
 ふーん。年寄りはなぜ肩が凝るのだろうか、子どもの頃、陽の射す縁側で祖母の肩を叩きながら(叩かせられながら)、そんなことを考えたことをしみじみと思い出す。子どもには無縁だから、老化現象であることは間違いないだろう。
「先生、枕が合ってないんでしょうかね?」
「かんやんさんの枕が合ってるかどうかは、わたしにはわかりませんよ」
 至極真っ当なことを答える、代替医療のくせに。
「そうか、長時間のスマホ利用、これだ! これが原因に違いない」
「まあ、理由は一つとは限りませんから」
「先生、そりゃそうですけどね、何が原因かわからなければ、生活習慣を改めることができないじゃないですか」
「飲酒は良くないですね」
「あ、飲酒以外でお願いします」

 夜勤明け、疲れに睡眠不足も重なって、いつしかクロワッサン型の枕に顔を埋めたままウトウトし始める。おや、誰かがかすかにイビキかいているなと耳を澄ませていると、いつしかそれが自分自身のイビキだと気がついて、眠ってる、疲れてるんだなと、なんだか己のことが愛おしくなってくる。

 すると、不意に背中に激痛が走った。
「痛っ!」
「おや、響きますか?」
「単に痛いだけです」
 ああ、甘美な眠りが奪われてしまった。
「イテテテテ……。あれ、一回目はこんなに痛くなかったですけど」
「一回目は背中がコンクリートみたいにコチコチに固まっていたから。今は体がほぐれてきたから、鍼が響く。効いている証拠です。響いたら、仰って下さいね」
「痛い、あっ痛あ、先生痛いです。先生? あの、痛いって。ギブギブ」
 なんで無視する? なんか言えよ。
「先生? 先生! 響いてます、かなり響いてます」
「かんやんさんは、痛みに弱いですねえ」
 え? そうか、そうなのか、自分は痛がりなのか。尿管結石の激痛で気絶したことがあるけれど、人と比べて痛覚に鋭敏であるとは知らんかったな。まるで男として二級品みたいなみたいな言われ方ではないか、たとえば、面と向かって「あなたは弱虫ですね」と言われるような。痛覚が全くない人の記事を読んだことがあるけど、骨折しても気づかず、病気になっても不調を感じることがない、そういう人を恐れ知らずの勇者とは言えないはずだ。
「痛みには役割がある」
「はい?」
「……生物が痛覚を発達させたのは適応……痛みに敏感なのは悪いことじゃない……痛みには……痛い、ああ痛い、イタタタタタタ!」
 そのとき、うつ伏せになって顔が見えなかったけれど、彼女は微笑んでいたのではないかと思う。いや、そう確信している。

 隣のスペースからは、お爺さん、お婆さんが鍼灸師と和やかにやりとりしているのがカーテン越しに聞こえてくる。
 たとえば、
「そろそろ桜も終わりですね」
「あっという間ですなあ!」
 とか。
「来週、孫の入学式があってねえ」
「それは楽しみですね」
 とか。

 痛みを訴える人など他のどこにもいない。それが自分と田中先生のスペースからは阿鼻叫喚である。たしか10年前には、こんな痛い思いをすることはなかったと記憶しているのだが。

 自分が痛みに身悶えると、両隣のスペースの穏やかな会話がピタッと止まって、揃ってこちらへ耳を傾けているのがわかる、わかるけど耐えられずに声が出る。

「先生、痛いです。そこ痛いですってば。いや、かなり響いてます」
 いや、返事しろや、何か言えや。無視するどころか、手を緩めることもなく、まことに情け容赦ない。サディストが鍼灸師になったら、そこに地獄が出現する。もしあなたがサディストだったなら、鍼灸師になりさえすれば、合法的に人をいたぶりながら金を稼ぐことができる。

「はい、よく頑張りましたね。それじゃあ、これから鍼を抜いていきますね」
「痛え! 先生、今抜くって言っといて、ぐりぐりと差し込みましたよね」
「ムホホホホ! バレましたかしら?」

 疑いようもなく、田中先生はサディストであった。でも、自分はマゾヒストなんかじゃない、たぶんきっと。

『ココロとカラダと』第五回

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