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あなたにとっての藤野/京本は居てくれましたか -私自身の漫画を“描き続ける”こと/『ルックバック』映画化に添えて-

この劇場内に
全国の観客に
やはり''当事者"は数多くおいでなのだろうと考えてしまう、私にとって映画『ルックバック』はそんな特殊構造の作品でした。
(※正確には"ODS"と呼ばれる"非映画コンテンツの劇場上映"扱いらしいのですが、便宜上”映画”と呼称します

原作は『チェンソーマン』の大ヒット作家・藤本タツキさん。
”あの日”
2021/7/19という、2019年7月18日のあの事件の日を意図したと思われるその2周忌直後のタイミングでweb公開された読切漫画『ルックバック』に、webというリアルタイム媒体ならではの仕掛けで全国の読者が衝撃を共有したあの日を思い出します。

映画で初めての方でも、恐らく観賞後には直結連想されてしまわれ
映画で改めて”あの事件に心裂かれた”方は相当数おいでではないかと思います。

ですが
どうしても題材として事件に触れざるを得ず導入としましたが
あえて当記事ではそちらへはこれ以上深く触れず
私はこの映画のキャッチコピーである”描き続ける”の側面の話をしたいと思うのです。

冒頭で”当事者”と書きましたが
本来その言葉が意味するものは”事件の関係者”です。
上手く言葉が見付かりません。
私が観賞中ずっと感じていたのは、そうした方々と同様の事件方面への感情と別途 只々
藤野/京本の 描き手として抱える様々 それらがダイレクトに降りかかる
あまりにも抉られ浴びるような無数の共感と憧憬でした。

映画は原作を大切にした本当に凄まじい執念の映像作品で
そこに関してはきっと他の方が数多く語り尽くして頂ける事と思います。
私は
この映画を観て 藤野と京本の日々を観て 私が抱えてしまった
きっと全国にも同様の方がおいでの
そこの話を中心に記事にしてみたいと思う次第です。

映画の感想にも強く触れますが
”映画を観て渦巻いた、描き手としての個人の話”の記事と思って読んで頂ければ幸いに存じます。

(※有料設定は投げ銭用です。記事は全文無料でお読み頂けます
(※記事中に、注意を添えた上で物語の結末に触れる言及があります


✑✒原作既読者が改めて抉られる臨場感/あまりにも熱量に満ちた映像化(※前置きをした上で物語の結末に触れる表現があります

私が本作を観ていて最初に泣いてしまったのは
京本の描画への衝撃とその周囲の反応を受けて
藤野が一心不乱に”ひたすら描く”を始めたシーンでした。

この映画全編がそうなのですが、映像表現に乗って登場人物達の感情があまりに躍動し眼の前の大スクリーンに映し出され
それを更に揺さぶる楽曲と、本当に藤野/京本としか言いようのない声質と演技での台詞が大音響で響き渡る
その尋常でない全身での映画体験がそこにありました。

内容そのものは原作に相当に忠実な媒体の移し替えでした。
では原作の時点でもこの感情に至ったのではないかといえば
当時を振り返っても実は少し違う個人的な感覚がありました。

原作となった漫画『ルックバック』は
それそのものが”漫画”という媒体であり
描き手である作家も当然の事ながら漫画描きです。
そこにどうも私は、いつの頃からか一歩引いた感覚での接触感覚を持つようになっていた自覚がありました。
漫画という媒体で何がどう描かれているかの上手さなり驚きなり、物語や表現に心震わされたとしても、それは純粋な作品体験というよりも”この作家さんはここをこんな風にしてこう描くんだなぁ”という、(私はプロではないので語弊があるかとは存じますが)ある種職業病のようなものが先立ってしまっていたのでした。

そこに描かれていた登場人物達が漫画描きであったなら尚更でした。
その感情は他人事ではなくダイレクトに飛び込んでくるもので
言ってしまえば藤野や京本が感じていた事というよりもそのまま”藤本タツキという作家さんが感じていること”の響き方をしてしまっていた感覚でした。

(*余談(ここ読み飛ばしても大丈夫です▼▽
私のこの辺りの感覚をこの頃より強く感じていたのが、それこそ同じジャンプ➕、同様にweb連載でSNSの話題性に満ちていたタイザン5氏の『タコピーの原罪』という作品でした。
あれを追っている時も”しずかちゃんやまりなちゃんがどうなるのか”といった、”話題”にもなっている登場人物達への感情移入や物語の考察などよりも、これ物凄くこういう仕掛けを考えて積んで積んで成程こういう事がしたいんだ凄いな..そしてまんまと人の感情を掴んで掴んでこんなにも話題を呼んでいる という、俯瞰の感心に満ちていたのでした。
例の見開きとか、起きてしまった事の衝撃以上に「webコミックだから出来る”初手左手側の頁が視えないが何が起きているか想像出来る見開きの使い方”」にびびり倒してたんですよね..。それだから衝撃が大きかった、という語られ方は幾つか拝見しましたが、その前にあの演出をやれてしまう手腕自体にびびって素直に展開そのものに衝撃出来なかったのを思い出します。
最終話も、これをどう着地させるんだろうという期待からのあの見事さで、これも感心しきりばかりで、ふと何でこんなにも素直に読めていないんだろうと感じたものでした)
*余談終わり*▲△

話を『ルックバック』に戻します。
それから年月が経ち私の環境も色々と変わっていたのもあるかも知れません。
原作の時点での”圧倒的な構築と表現の上手さ”をあんな風に眼前の映像作品で再構築されてしまったら、あれほど活き活きとした彼女達を目の当たりにしたら、もうその本質を浴びるしかなかったのかも知れません。

漫画とアニメーションは全く別の媒体です。
その事が、私のような感覚の人間には今回はあまりに効果覿面だったというのもあったのだと思います。

京本の家からの帰り道の雨中、全身で示す藤野の感情。
原作でもあの見開きでこんなにもという表現の圧倒感に唸った箇所
音と動きと時間の流れであんな風に魅せられてしまったらまた泣く他なくて
そう
原作で上手さに唸った箇所で、映画では尽く泣いてしまっていたと振り返ります。
本当は、「この表現..!」と俯瞰で受止めてしまうのでなく
素直に感情を揺さぶられてよかったはずなのでした。
その機会が今回訪れたのだと感じます。


※結末に触れます※
▼▽

藤野はラスト
もう永遠に振り返ってはくれない
その背中を視ることすら叶わない
そんな京本の”背中を見て”
二人の日々を”振り返って”
”描き続け”ます。

あのifのようにきっと京本は、藤野と直接邂逅出来ずとも美術の道に進んでいて。
でもそれもやはり学級新聞を介してずっと藤野の背中を見て進んで来た先に辿り着いていた場所で。

藤野は、京本と邂逅出来なければ只折れて描くのを止めてしまっていたようでいて
やはりまた描き始めていて(※これはそうしたいと思っていただけでまだ動けていなかった小学生の頃のような見栄かも知れませんが何にせよ)
そんなタイミングであの世界線でも京本と出逢えて
その先の二人で”描き続ける”未来も広がっていて。

あのifとあの四コマの飛来は
自責の念に壊れそうな藤野が視た空想という解釈も出来るかも知れません。
(※キックの流れとか”姓だけで藤野先生だと気付く”流れとか、割と解り易く”藤野漫画の作風”なんですよねあの一連のシーン..。)
でも
私は、”そんな事だって起きうるのかも知れない”と、思っているんです。

思って、いいと感じるんです。
2019/7/18。現実社会で、あんな事件が起きて
大勢の、亡くなられた方の大切な人達も藤野同様の沢山のifを
”救えなかったのか”のifを重ねたであろう事は想像に難くなく
いや 事件を別としても
只々劇中に藤野と京本に起きた事を経ても
せめて
それでも”描き続ける”藤野が視続ける背中の持ち主が
京本が
助かっていた世界とどこかで繋がって
藤野に”歩”みを進ませる糧をその手に届けてくれたんだって
そんな事が
あったっていいと私は思うのです。
せめて
創作劇の中で。

いや
創作表現の中だからこそ。

△▲
※結末に触れる文章はここまでです※


本当に凄まじい熱量の映像作品でした。
その熱量で原作の持っていた根本がこれでもかとダイレクトに届いた事で
私は 作品の圧倒感への満足具合と別途
沢山のことを考え”振り返り”
実は
それ程の感情を揺さぶれた映画を観た後だというのに
あまりにも暗澹とした胸の塊を抱えながら劇場を後にしたのでした。

それは どうしても第三者でしかない”事件”のことではなく
私個人としての”当事者”の重ねて来たこれまでの全てでした。

次項では
その話をしてみたいと思います。


✑✒今でも”描き続け”ている自分なのに 何にこうも抉られ暗澹とした気持ちを抱えたのか(”私個人”のこれまでと今の話をします

私ね
『ルックバック』映画化の報を知ったのは公開の二日前だったんです。
Twitterから離れるとこうも情報が入って来ないものなんだと思いつつも、それでもこうして知れて(※その日たまたま読んでいた電子書籍サイトで「映画化記念試し読み増量!」のアオリを見掛け「..え、ルックバック映画化するの..?!」となったのでした)
慌ててスケジュールと照らし合わせると丁度初日は夜勤明けでその晩は仕事非番の巡り合わせ。
大雨の中を、始めて訪れる商業施設内の映画館へと向かい
初日初回で観届ける事が叶いました。
これは是非欲しいと思った入場者特典の初期ネーム冊子
(※因みにこれ、“藤本タツキのガチネーム”が堪能出来るかと凄く楽しみだったから欲しかったのですが、特典冊子用に作画も調整されて台詞も全部写植入ってて、こんな風にしなくていいのにな〜〜..と正直な処かなり残念なものではあったのでした..)
も無事手に入れ。
入場前に物販も押さえておいて。

マグカップ好きなので物販にあると基本買っており。。(普段コーヒーはタンブラー飲みなのですがこの日ばかりは折角なので藤京カップに淹れたのでした

そうしてとても良質な映画体験を得られ 前から行ってみたかった場所なのでゆったり廻って楽しんでくるつもりでしたのに
劇場を出た私の足取りは
とてもとても重く。
せめてもの何かと美味しそうな鮮魚店やパン屋さんで少しばかりの持ち帰りを手に
頭の中はずっとぐるぐると廻るものを抱えながら
帰路についたのでした。

◆◇✒

今回の映画で沢山沢山思い出してしまった
私の漫画描きとしての遍歴の御話を少しさせてもらってもよいでしょうか。
ご興味ある方だけでもお読み頂けましたら。
(かなり長くなります

私が最初に商業漫画との繋がりを持てたのは社会人になって少ししたまだ20代の頃でした。
それまでは独学でずっと描いて来ていて。
割と小さい頃からで
それこそ藤京ちゃん達のように小学校の学級新聞に漫画を載せてもらっていたり
大きな画用紙にコマを割って直描きの個人趣味連載をやっていたり。
物語を夢想する事はそうした頃からあれど、本格的にそれを形にするようなストーリー漫画を描き始めたのは遅めで、大学に入ってからでした。

”漫画家”を”目的”とはしておらず
”描きたいだけ”でいたはずでした。

それでもやはり学生が終わり社会に出て行った中で、手に職としての道もあるのではないかと選択肢に添えるようになりました。
幾つかの過去作品に少し手を入れ、初投稿を試みました。
その試みに
今は無き雑誌マガジンZさんが、新人漫画賞佳作という客観評価を与えてくれました。
かの著名出版社、講談社さんの雑誌でした。

(△当時の投稿作の一つをセルフリブートした『いやなゆめ』という御話です。リンク先のアルファポリスという投稿サイトで無料公開しておりますので宜しければ後程にでもお気軽に御一読下さい)
(あの中で一番評価され紙面の発表も載せてもらえたのがこれの元になった『ハユの左腕』という御話でした。荒削りで”話の流れも透けて見える”と厳しい講評も頂いた本筋を残しつつ、別のテーマを通し異なるラストを紡いだ改作がこの『いやなゆめ』。私自身とても懐かしい作品です)

受賞に、私の心は沸き立ちました。
それまで、自分の漫画はとても人を選ぶと感じていました。
それが
商業媒体という一番客観的な場所で評価されたのです。
まずは佳作ながら編集さんが作品をみて下さる繋がりも生まれました。

当時まだ福岡住まいでしたが東京へ飛ぶ機会を作り、護国寺の講談社ビルに担当さんへご挨拶にも赴き
(*先日の『じゅん散歩』が護国寺だったのですが正に講談社にも訪れていて。地下鉄を出てのこの入口懐かしい。。。。と昔を思い出していたのでした。講談社は移転せず今もずっとあそこなのですね*)
担当さんも「かほうさんの人となりを知りたいですし」と暫し歓談して下さるなど本当に商業の入口に踏み入った実感と
上京のタイミング的に賞の賞金を「折角なので」と手渡しして下さって(※実はその後も別誌で受賞経験を得る事にもなるのですが普通に振込でしたので、こうした手渡しは今でも貴重な体験でした)(ちゃんと源泉徴収票入ってました)
それは”自分が初めて商業方面での漫画で得た収入”と強く感じ入ってしまう特別なもので
暫し神棚的に置いた上で、やはりむしろしっかり使っておこうと考え、DVDプレイヤーというモノの形に変え、Blu-ray中心環境に移った今でもその機器はそうした特別な意味を持ったものとして捨てずに置いてあるのでした。

美麗な絵でも世間的に”上手い”絵でもない、私の漫画は特にその絵柄でまず敬遠されてしまう自覚はあり
(*「正直最初絵で引いちゃって読まずに置いていたんですよ..でも読んでみたら凄く”漫画”上手くて。。」と当時の友人に言って貰えたのが本当に嬉しかったのを思い出します。
その人は後にプロになった人でしたので尚の事..。
しかしつまり
そうしてやはり読まれる機会をまず遠ざけるビジュアルは自覚の通りだったのです)
内容も、手癖で漫画を構築する技術は不思議と元より持っていたものの、そこに頼りがちで伝わりづらい表現をする事が多いようにも思われました。

若かった私は「これが自分の漫画なのだから広くウケないならそれは仕方ない」と考えていました。
それは今思えば、言ってしまえば事前に置いた言い訳にも成り得るものであったと感じます。

人を選ぶと思うが故に、評価と繋がりを持てたこの場を逃す訳にはいかないと気持ちばかり先走りながらも
先述の譲れなさで担当さんの求めるものに柔軟な対応を出来ないまま
当時フルタイムの仕事をしながらの中、気持ちはより煮詰まってゆき
漫画を人に伝える、という事に向き合えなくなってしまった時期がありました。

その前に少し遡った話を致します。
大学の頃に所謂同人活動というものも知った私は、二次創作という”他者作モチーフではあれどその先に自分だけが描ける表現”の結実として
即売会に参加して精力的に毎月新刊を出し、アマチュアの世界で色んな人に読んでもらえ、自分の描いたものを手に色んな人との交流
(既にプロの世界に居た人や、プロのアシスタントをしている人、後にプロになっていく人など、そうした人達とも普通に交流を持つ御縁がありました。私もそこからある人の元でアシ経験させて頂けたりもありました。当時でも頭角を現していた今や遥か高みの著名イラストレーターとなっている人と友人経由でお逢い出来、私がアカチャンホンポで買ったフィギュアを見せてくれた御礼にとその方が自販機で珈琲奢って下さった事とか、そんな個人的な何気ない事なんかも凄く覚えているのでした。。)
を得たり
そうした楽しみややり甲斐を得ていました。

当時は”かほう和裄”名義で、出展サークル名も今の”乾燥水路”でなく”こぉひぃ苑”でした(打ってて懐かしい。。)。
読んで下さっていた方や、当時のお知り合いの方など、お元気でおいででしょうか。
上記のようにプロとして遠くにご活躍を知れる方だけでは勿論なく、物凄く上手くてきっとプロになられているのではと思っていた方をふと今検索しても動向がネットでは拾えない事などもままあるのでした..。

△以前ちょっとそんな記事も書きました。今時だろうと、ご自身がネット発信されてる訳でもなければ何でも知れたりはしないのですよね..。そしてあれだけ描けた方が、商業に行かれず個人でも描かれていないと思われる事だけが知れてしまう形でした

話を戻します。
そうした活動は大学を卒業してからも続いてはいたのですが
商業に向き合う中で”それどころではない”焦りもあり、同人関連からはいつしか離れてしまった日々の中でもありました。
自身が燻っている中で商業で”結果”を示していく人達とも顔向け出来ないような感覚になってもいきました。

そうして自身を囲い追い込みしていった先のそれは
広い世界に向けて自由に発信出来た同人活動の頃と違い
幾ら作品を構築しようとも、対象となるのは担当さん只一人という環境の中でずっともがいていた形に思えていました。

ネーム(※漫画の設計図)を友人らに読んでもらう事はあれど、結局のところそれを提出して通る通らないの対象は担当さん只一人という詰まった感覚に支配されていました。
一人に向けてしか漫画を構築出来ない という環境に居たとずっと感じていたのでした。
しかし
これは今思えば、そうではなくその先においでの大勢の不特定多数の読者に向けてでなくてはいけなかったはずで、それはきっと担当さんもそう導いていてくれていたはずで
なのに視野狭窄になっていた当時の私には”自分の描き方をどうやってこの人に認めさせるか”ばかりに陥っていたのだと振り返ります。

担当さんは考え方の参考として自社漫画を例に出したりもされたものの、当時の私にはそれを柔軟に受け取る事が出来ていませんでした。
例えば”キャラクター”を前面に出す例として著名ハーレム漫画のタイトルを出された時など、「私の作風を解っているんだろうか」「そういうのを描きたい訳じゃない」といった拒絶で止まってしまっていました。
何を描くにせよ”キャラクター”は巨大なフックで、どんなギミックの話をどんな表現でやるにせよ、”誰が”その物語を歩むのかに読者はまず惹かれるもので、今振り返るにそこへの意識が薄かった私に解り易く伝えようとしてくれていたのだろうと思うのでした。
(まぁ担当さんの好みも色濃くはあったのでしょうが..「ギャルゲーとかします?」みたいな話も護国寺で初っ端振られましたし)

△ここに掲載してる中の『「変な子。」』という御話も短編でこんなのも描いてみましたと読んでもらったのですが、登場する狐面の幼女について「例えばこの子が実は妖狐だったとかそういうのが欲しい」と言われて、私は「(この話そういう事じゃないでしょこの人とやりとりしてて大丈夫..?!)」となっていたのを物凄く覚えているのでした。
でも膨らませるなら例えばそういう事を起点にというのも一つなんですよねと今となっては。
(それはそれとして他の方のnoteで同じような事を言われた方を知って少し面白かったです。この方は全然そんな御話じゃない作品の神父さんを「漫画だし神父様は実は人外とかそんな突飛なのでもいい」と言われたそうで▽

さて
当時は今からすれば前職、某元公務員扱いの巨大民営化企業で日中フルタイムで働いており、無理は若さで押して二足の草鞋をしてはいても、先述のような五里霧中の中でもがいているだけでは漫画で良い結果にも繋がるべくもなく
(担当さんからの電話にも「この時間今仕事中だって言ったじゃないですか..!」みたいに拗れてしまったりしてました)
やがて
私の中で”漫画を誰かに見せる意味”が潰れていきました。

二次創作の同人誌即売会に戻るような気持ちにもなれず
拗れたネームの残骸を見詰めながらもそれを描き上げる事もなく
日々は過ぎていきました。
それでも
原稿の形にはならずとも、”漫画”を描きたい衝動はずっと燻ったまま、ぽつりぽつりと新たにネームをひたすら描くようになっていました。

この先も思い出話は続きますが
今振り返って一番思うのは
私はずっと一人で漫画を描いていたのだなという事です。
勿論、創作活動をしてきた中でいろんな人との出逢いや交流は沢山沢山ありました。

そう 例えるなら
藤野にとっての 京本にとっての お互いのような
ただひとりの誰かって 居なかったのだなと
そう振り返るのでした。


(△..実際に藤京ちゃん達のような日々を持っていた方の感想記事がありました。そう こうした響き方をする観客がおいでのはずの映画と、思っていたんですよ。。



そのうち、Zの担当さんだけが全てではないはずと、そうした事にもやっと考えを移せるようになり
再度東京に飛んでの持込廻りを計画するに至りました。
しかし こうして商業方面への諸々を経て気持ちも空回りするばかりの中で無理矢理退路を断つべく先に予定だけをねじ込み挑んだそれは
準備もまるで間に合わないまま、不本意な原稿を抱えての惨めな旅でした。
間に合わせのような原稿からもセンスや独自性を拾って評価と課題を下さる編集部もあれば、見た目で突き放し叩き捨てるような言葉を浴びせてくる方もおいででした。(*1

(*1:
余談ですのでここは読み飛ばしても大丈夫です▽▼
もう時効且つ印象深かったのでここだけ詳細に言ってしまうと
これはコミックビーム編集部で、それも副編集長さんだったのでした。
念の為
悪い話を晒しあげるとかでなく思い出話です。多分今では有り得ない”編集さんのこういうやり方”を体験した話として読んで頂けたら。

今では、というか正直当時でも考えられない気もする
原稿を渡した途端”煙草をふかしながら”速読でババババ というのをやられてびっくりしちゃったんですよね..。
そして開口一番罵倒が始まり。
私は本当に煙草が駄目なのも重なって気持ちは完全に平坦になっていました。
読んで何か言われるなら兎も角、読みもせず罵られている。
「こんな酷い線引く作家なんかいないよ!!」とかね。
「こういう事を聞きに来たんじゃないの?!」とかね。
そこから延々自社の作家さんの武勇伝が始まって、偉いのは作家さんで編集さんじゃないじゃない..と思いながら聞いてました。

少し面白かったのは、私の様子に心配になられたのか
最後「..改めて原稿見てると、造詣力(絵だけを見てたなら”造形”の方の意味だったのかな?)はある人だと思う」と急にお褒めの言葉が出たんですよ。
今思うと本当に只々”この人のやり方”で批評をしていたのだろうなぁと思うのですけど
当時のあの状況の私には気持ちを死にきらされるのに十二分なもので
「帰りの飛行機が落ちたら楽になれるのかな」とぼんやりと考えていたのを今でも覚えています。
(後から知るに岩井副編という人はかなり実績としても著名な編集さんだったのと、別の方に嫌疑が掛かってはいけないのでお名前も出しちゃいますが
実際こういうやり方で作家さんを育てて来ていたのでしょうし評価されている人です。
本気の尖った人が沢山居るビームだからより、私がその時の抱えていた半端な原稿が許せなかったのかも知れないなぁとは思えるのでした。
今でなら、ね。
(そこに関してと別途
可燃物である原稿用紙に描かれた漫画を
火を伴う喫煙状態で乱暴に読む
という行為自体は到底創作に関わる人には思えなかったのでした。
これだけはその原稿内容がどうのとは全く別の話ですからね……………(これ言うとあれでしょうけどわたしその後ビームコミックス買わなくなりました

因みに
その時の原稿は何年かして多少作画面の手入れをして別誌に投稿し、そこで賞を頂くに至った作品となったのでした。
ね ほら 読んで 読んでよちゃんと岩井さん。
ですが言ってみれば、ちゃんと読んでもらえる体裁を整えられずに人にお出ししていたのは私自身で、そんな覚悟じゃプロでやっていけないから叩き潰すという方針なのも意図は理解出来るのでした。
その先をどうするのかは作家自身ですしね。
*1余談おわり△


そうして再始動も燻ったままの中
ある時
とある映像作品内での登場人物達の”関係性”に大きく心を揺さぶられるという、それまでに無い体験をしました。
毎週何気なく観続けていた中で構築されていった身を割かれるような展開の先に、相手の命すら潰えるかに思えた中で登場人物二人が強い強い想いの先に掴み取った”未来”に、気付けばぼろぼろに泣き崩れ、彼女達のこれまでとこれからに頭が一杯になっていたのでした。

私は
久々に漫画を発信したくなりました。
大学生の頃に触れていた同人活動も、知った入口はパロディやファン活動冊子的なものであっても
程なくして”好きな作品への想いを自身の漫画で返したい/或いは興味深い題材を借りて表現してみたい”という衝動の先に描くようになっていたものでした。
そうした感情がまた戻って来たのです。

暫し描けなくなっていた反動でもあったのか、新しい刺激を受けての新しい試み、その時に描き始めたものは大幅にこれまでと異なる作風でした。
自身のオリジナル創作でもストーリー漫画が主で
二次創作でも”著名作品を表現題材とする創作起点”、”何かの物語と登場人物を原作に沿って自分が動かすならば”という試みの発現、原作を尊重した隙間の物語を紡ぐシリアスストーリーがそれまで主であったのに対し
今回は二人の関係性を、言ってみれば”ウケやすい路線でコメディ的に弄る”、思えば何故あの頃あのように描いていたのか、今の私なら到底受け入れられないものでした。
ですが、あんな日々の後で”新しいもの”がとても楽しかったのは確かで。
それでも恥じる自覚はありペンネームも変えてこっそりpixivに登録し、投稿を始めました(※今ではあの場は創作の場ではない事を強く感じ離れています)。
(因みに絵柄や漫画の構築具合で友人にはすぐにバレてしまって、「こういうのも描くんだ..」と言われたものでした☻

”楽しかった”その二次創作は、私が楽しかっただけでなく
同様に沢山の方に届き始めました。
多くのいいねやブクマ、コメントが付きフォロワーさんも増えていきました。
それらは定期的に投稿を続ける事で加速度的に増し、更に描き手側の繋がりも増えていきました。
そのジャンルはOnly即売会もよく開催されている事を知り、当時まだ福岡住まいでしたがその時期に同人誌の新刊を作り東京へ飛びイベント参加とその機会にと東京観光を楽しむようになりました。
新刊を楽しみにいつも来て下さる方や差し入れを下さる方ともお馴染みになったり、活気のあるイベント自体を楽しんでいました。
上京していた大学時代の後輩に宿を世話になり、お邪魔の機会がてら一緒に遊びに行ったりごはんを食べたりもあって、そうした縁の再開にも繋がりました。

そしてこの日々は 何より只々
自分が好きと思って漫画の形にする事が大勢の人に届くという体験の高まり、漫画を描く事と発信して届いてくれる事の楽しさを思い出させてくれた日々でした。

二次創作となるとそれは作品の中核が借り物でしかない側面は勿論あります。
人気ジャンルを描けば誰だって簡単にウケるに決まってるという印象を持つ人も少なくありません。
ですが実際にはそんな訳はありません。
題材が何であれ、其を自身がどのように描いて”この人の描くこの題材が読みたい”と読み手に思ってもらえるかは
演出や物語構築、人物描写、漫画表現などの技術面に於いては、オリジナル創作も二次創作もモチーフの違いでしかないと言える側面もまた確かに存在していました(※二次は登場人物や根本世界が借り物である事は理解しています)。
他者の構築した世界や登場人物を自分がきちんと理解して動かせているかの上で自身の表現を乗せられているかは、同様にその原作を好きな人が読むものであるがゆえにかえって難しい側面も存在していました。

どんな形であれ、担当さんとのやりとりや持込廻りの中で潰れてしまっても離れられなかった創作への気持ちを優しく掬い上げてくれたのが、以前とまるで違うジャンルで再び触れた二次創作というものの世界でした。

処が
その作品の結末は、私にとって その二人に想い入れていた多くの人にとって ショッキングなものでした。
別れの演出も丁寧に丁寧に積み、別々の世界にまるで今生の別れのようになり幕を下ろしました。
お互いの想いを汲み取れば汲み取る程、安易に再会したりするような事もこの先もうないのかも知れないとすら感じるものでした。

私は二人でそれまでのようなコメディを描く気には一切なれなくなり
何かを描くにしても最適解を手探りしつつどうしても気持ちが晴れず休みがちになりました。
原作展開を無視してそれまで通りを描く人達も居て本編の反動で多くのいいねも付いていましたが、そうしたものは私には違うものに感じました。

私は久々に一度
大きな御話を描きたくなりました。
それ以前までで培ってきた本来の作風で、二人の未来を紡げないかと考えました。
あの結末のその先に、原作の全てを拾った上できちんと描かなければ意味がないと考えました。

強い強い想いを込めた一篇の物語が完成し、刊行し、読んで下さった方から大反響を頂きました。
作風の違いに驚かれもしましたが、本当に真摯さを感じたとも。
実は本来こんな感じで。。と明かす切掛にもなり。
私自身、その二人の未来を紡げた事で気持ちの整理がつき、また描き始める事が出来ました。
自身の創作で自身を救った形でした。

そしてその後
コミケで友人のスペースに手伝いがてらこの時の本を置かせてもらったところ、置いた途端お隣のおふたりから「..え?! かほうさん..ですか….?!?」と訊かれた経験をしまして。
その本を読んで下さっていたそうです。。「物凄く良かったです..!!」と熱い熱い感想を聞かせて頂けて。。。。
そうなんですよね、私も良い本を読んで感じ入ってもだからと感想を御本人にお送りするかというとやはりなかなかで。
こんな偶然で出逢った方達にこんな風に聞かせて頂けるなんて素敵な体験も嬉しかったのですが、そうして同様に、自身の知らないところで自身の描いたものが届いて誰かの心を動かしている事があるんだという実感を、実体験として得られた機会でもあったのでした。

そのジャンルの新シリーズでも即売会参加の度に新刊を作るという活動は続き、全体はやはりパロディ的な本が目立つ中で私のストーリー性のある作風に惹かれて読んで下さっている方もおいでで(直接言って頂けた事がありました..! 即売会というのは先述のような巡り会わせも含めこうした機会でもあるのですよね)
それは手応えでもあり楽しいものでしたが、ある時ふと
刊行がノルマのようになってきてはいないかと振り返る事がありました。
ある種”新刊”を楽しみにして下さる方に応える形というのは例えば商業でなら必然でもあるものですが
これはあくまで趣味の範囲の、自身の手癖による創作活動です。
それも特定のジャンルを原作とした、ファン活動の側面も大きな世界です。

私は少し、そのジャンルを離れてみる事にしました。
元々色んなジャンルで描いてみたい題材はあり、一つのジャンルの執筆に時間を取られている事を見直す時期でもありました。
ジャンルを移っても”私の漫画”を求めて追って下さる方もおいででした。
新たな場で初めて知って下さる方もおいででした。


少し時期は前後しますが
先述の持込原稿のブラッシュアップ版の投稿で、フレックスコミックス社のフレコミ漫画大賞審査員特別賞を頂くという栄誉を授かりました。
実は先述のジャンルに居た頃にも、創作Onlyの著名即売会“コミティア”に参加するなどオリジナル創作での活動も再開しておりまして。
”行動”がまたこうして、決してマガジンZのあれは二度と来ない手放してはいけない奇蹟などではなく、”結果”を連れて来てくれるものだと噛み締めたのでした。

△その時の作品がこの椿シリーズ初作『椿』です。
この時あの、こいでたく先生が審査員においでで、「終盤の感情曲線が強く出ていて」と評して下さったのをとても覚えています。。

この時の担当さんはかなり私の作風に寄り添って下さる方で
「切なくもあたたかい」とキャッチコピーまで下さって
(..二次創作同人をしてた頃にも「不安と解消の御話」と評して下さった方がいらしたのを思い出します。。)。
にも関わらず
以前と違い穏やかに商業に向き合えているはずなのに
私はそれ以上先に繋がる結果を出せないままでした。

ある時私がコミティアで上京した機会に担当さんがスペースまで御挨拶に来て下さいました。
直接のまさかと御話を有り難く受けていたのも束の間、それはその方がその先の別のお仕事展望の都合でフレックスコミックス社をお辞めになる、その御挨拶でもありました。

その方が御在籍の間に私は結果を出せませんでした。
「漫画本当に、上手いと思うんですよ..」と最後まで私を評して下さっていました。
折角寄り添って下さったのに、その先の結果をお渡し出来なくて..。
改めて今でも本当に申し訳なく。
そして今でも本当に強く感謝しております。
ご健勝であられれば幸いです。

こうした方に巡り逢えてもこうした顛末になり
私は、どう切り込んでいけば結果に辿り着けるのか判らない感覚に苛まれていました。
それなりに漫画が描けても、仕事とするならそこはスタート地点です。
どう描いたものをどう売りたいかの意識への到達の足りなさ。
持込廻り時期にある編集部で、「あなたは“漫画を描くことが好きな人”なんだろうなとは思うんですよ」と言われた事を今でも覚えています。


その後、“描きたい”の発現先に二次創作同人ジャンルを転々としていました。
これは他者著作を道具的に使っていたのではなく、惹かれたジャンルを自身の漫画で返したいという本来のやり方を続けていたものでした。

それはそれを好きな方に、他の同人作家にない物語表現として各所で好評を頂いていました。
やはりきちんと作品基盤が作られている上での私の表現というものにはその力があるという自負と、オリジナル創作時に足りないのはそこなのであろうという自覚にも繋がっていました。
後者を手探りで構築しコミティアに出てみても、漠然とした手応えの無さに繋がるばかりでした。

そして
段々二次創作界隈というものの性質に疲れや嫌気が上回り始めていたのもこの頃からでした。
二次創作の同人誌即売会絡みのコミュニティというものは
好きな作品を描いて好きな人に読んでもらえるという綺麗で単純な構造などではなく。
結局ファン活動のいち側面の意味合いとしてその界隈のあれこれに強く取り巻かれている事にも、正直以前から引っ掛かってはいました。
人間関係云々は最初の同人活動の頃も勿論あったのですが、今のようにSNSで即ああだこうだとあるような時代ではありませんでした。

ある著名ジャンルで、少し王道でなくも熱烈な支持もある私イチオシだったカップリングでしっかりした御話を複数刊行した際に、同好の方の好評と共に、その中にSNSで私の本を掲げて他カプを攻撃する材料にしていた人を見てしまった事もありました。
私は同様にSNSで少しそこに触れて次を描く事を控えるようになっていた処、私をフォローしていたその人は「生産性がない.潮時だ」と呟き私をリムーブし。
そんな経験もしたのでした。
好きなものを好きな人に届く形で真摯に描いていても、“界隈”というものの中ではそれだけでは終わらない可能性が潜んでいるものでした。
ここだけの話
同じカプを描いていた人が別カプ支持者から危害予告を受けてイベント参加を見合わせるといった事すらありました。
その方は既に商業もされている方でそちらでの活動も増していき、その後同即売会には参加される事はありませんでした。
商業がお忙しいのもありましたでしょうが、他ジャンルで同人活動は続けておられ。それはつまり。
でもこれは私としても、このような厄介事と戦ってまで特定の界隈への関わりを優先する事などないと私も感じるのでした。

先述の、二次復帰後よくOnlyに出ていたジャンルを離れたのも
正直なところあれこれカプ論争なり人付き合いのいざこざなりに巻き込まれる辟易さが積み上がっていってきていたのが理由の一つでもありました。
転々はそうした事から距離を取る意味と、様々な題材で描ける意義と双方あったのですが
それは平穏と同時に”繋がり”からも距離を取る事でした。

とある作品の舞台となった場所/所謂“聖地”開催の即売会の機会にそこを訪れた素敵な経験があった際
少し顔見知りになっていたその界隈の方に「折角好きな作品が一緒なんだからもっと交流を..!」とストレートに言われてしまった事もありました。
それなりに踏み入り過ぎないバランスを保っていたのは意識的なものでもあったのですが、冷たい印象にも繋がっていたのですかしらね..。
イベントの打ち上げに作品のスタッフの方が来られるなんてサプライズもあって私はテンションが上がりその方と話せる機会もあってウキウキしてしまったのですが
それもかえって裏表のように感じられたのかも知れません。
更に
帰りの列車で一般参加の方と偶然乗り合わせて少し御話したところ、「実は作品をそんなに知らないけど人脈が欲しくて参加していた」と笑って話されてしまい
私は
その作品自体に愛があって漫画表現でお返ししたくてこうした活動に参加しているという基本があるのは昔から変わらない訳で
何だか そうですね
その日の打ち上げ等でもどこか感じた、私が距離を取っている事を感じ取られての居心地の悪さなどもふつふつと思い出し
何だか
そのジャンルからも距離を取る心持ちになったのでした。

別の
作品自体が本当に純粋で素敵な世界で描き手の方も手慣れた方が多い印象のあったジャンルに立ち入った際
想像していた空気感とまるで真逆のような事
初参加で隣接サークルから開幕性的な冗談を受けるという事がありました。
愛想笑いで流しイベント自体に集中していたところ
後日SNSで“私の態度”が所謂“学級会”(※気に入らない相手を界隈の複数で吊し上げてああだこうだ話し合うという、同人ジャンルの隠語のようなものです)されてしまうという経験をしました。
「人付き合いを避けて同人やってけると思うな」なんて言葉まで出されて。
それでもその作品で描きたいものがあって参加は続けていたのですが
最終的にその界隈の片隅で結構なトラブルに巻き込まれてしまって。

その面倒ごとは後を引いて
でも
先述のように、それと戦い続けてまで界隈に滞在する必要なんてない訳です。
対処出来る手は打った上でそれ以上相手にせず他ジャンル描いたりコミケなど大きなとこに出たりもしていました。
そうして好きに活動を続けていても良かったのですが
あるタイミングで
これまでも積み上がっていた二次創作界隈の性質自体からの距離の取りたさ
SNSで渦巻き続けるそもそもの“二次創作”というものに関わる無限の論争への辟易
オリジナル創作に絞るにせよ漠然とコミティアに参加していても仕方ない感覚
そうした諸々を考える機会になり
一度
自費出版による即売会参加という慣習自体から、離れる事にしたのでした。


奇遇なもので、それから程なくしてコロナ禍が始まり
私個人云々でなく、誰もが参加を見合わせるどころか
即売会開催自体が断念や縮小を余儀なくされる世界になっていきました。
そうした世界を横目に私は、今時はネット経由でどこからでも作品を発信出来る事に向き合っていました。
むしろ若い世代などは最初からそうした発信を積み上げている様子も知り、世界の受け皿は遥かに広がっていると肌で感じました。

リアル即売会の頃からお世話になっているメロンブックスさんが疑似即売会や代行イベントを開催された際にはそうしたものにも参加し、そこ合わせで二次創作の新刊を出したりもしました。
目の前で手に取ってもらえたり声をかけて頂けたりするリアル即売会と違い、手応えはありません。
ですが、いつか描きたいと思っていた御話を幾つか形に出来た切掛となり
中には大学の頃に描いていたジャンルの新作をどれ程ぶりかに一本の御話として描き上げた本として刷ったものもありました。
そうして、手応えもない代わりに様々な軋轢からも解き放たれた、“只々自身が描きたくて形にして発信する”事に立ち戻っていきました。



その先に
オリジナル作品投稿サイトで創作漫画の週一更新を始め、もう2年半ほど毎週継続しているのでした。▽

元々ずっと抱えていた長い御話をどこかで形にしたいのがあって色々と調べていたところ、このアルファポリスという投稿サイトに辿り着きました(当記事中でも既に幾つか過去作の参考リンクに使っておりますね)。
小説だとあちこちあるのですが漫画って存外なかなかで。

場所を見付けてからもどんな風に連載していこうか暫し試行錯誤していたのですが
2022年の年明けすぐの良き日に、何かを始めるならこういう日でしょとばかりに、まず載せちゃおうと描き下ろしの一篇を掲載しました。
それがこの『星の虹彩 準備篇』chapter.1「海を歩む」でした。▽

これはその“長い御話”に関わる子達を漫画の形で出力してあげたいという結実でもあったのですが、この子達の事を以前から御存知だった知人さんからかなりの反響を頂いたものでした。

翌週、今度は過去作の手直しを折角なのでと同曜日同時刻に掲載し、こうして始めた以上やれるところまで週一更新を続けてみることにしました。
週によっては、数十頁の作品に手を入れて描き下ろし表紙まで入れて新装版の頒布用電子書籍も構築し宣伝を添えてみる事もあり、結構な作業量ながら充実したものでした。
幾つか過去作をそうして掲載していった5月下旬、丁度その子達の内のふたりの誕生日時期であったため、それにまつわる新作を連載してみようと思いたち
chapter.4「生まれを想う」の連載を始めました。

これは実験的に毎週1-3頁程度の少頁数を描き下ろしていく方式をとり、ある程度のプロットはありつつもどう着地させるか構築しつつ連載は3ヶ月ほど続き
そろそろ締め括る段階で、その年の8/30が丁度更新曜日である火曜日だと気づき
震えました。
その日は
正に今回の御話のテーマでもあった、メインの子の誕生日でした。

不可思議な巡り逢わせだと感じました。
本編を始めるなら今なのだろうと感じました。
chapter.4のラストを本編へのブリッジとして描き終え
翌週には予告篇を描き下ろしました。
この時、実は名前だけがずっとあった主人公のビジュアルを予告篇を描きながら紡ぎあげられて
本当はここで週一連載は一度見直し、それなりの頁数で話数を描き上げる毎に更新する方向でいこうかとも考えていたのですが
もう 描き始めてしまいたくなり
準備篇chapter.4と同様の方式で、本編『かみさまのふね -星の虹彩-』の連載を始めました。▽

この御話は現在も少しずつ少しずつ連載中です。
現在の展開まで来て、前身を『準備篇』と題しておりましたが実はどちらから読んで頂いても各々繋がるものがあるのではと感じます。
そしてまた奇遇な事に、昨年も8/30前後で丁度の区切りに『準備篇』の一年ぶりの更新として誕生日関連のchapter.5を描き下ろしていたのですが、今年の8/30前後に本編が至りそうな展開からchapter.6を描けそうで、その予定でおりますのでした。

因みに
アルファポリスは作家に広告費還元がありまして、読んで頂けるだけで(微々たるものですが)私にも少し来ますゆえ
是非現在連載中の『かみさまのふね』をはじめ御気軽に色々と読んでみて頂けましたら幸いです。
無料でお読み頂けます。
(ここを選んだのも、趣味で無料漫画を描く日々にするのではなく
仮にも創作による収入に繋がる仕組みは大切と感じたからだったのでした


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✑✒

さて
やっとこの項の本題です。

これでも相当に端折りながら長々と振り返り“今”に至りましたが
こうして
ずっとずっと描いて来ていて
今でも描いている訳です。
私とて。

ですのに
映画『ルックバック』を観終えた私を支配していたのは
藤野と京本の日々を ラストの藤野の背中を見届けて頭の中をぐるぐると廻っていたのは
一体私は何をしてきていたのか という感情でした。

何にそんなに打ちのめされたのでしょう。
仕事に出来ていない事でしょうか。
描く量が圧倒的に足りていない事でしょうか。
お互いにとっての藤京のような誰かが居なかった事でしょうか。
全部でしょうか。

..判りません。
あの鮮烈さを浴びて 同様に苦しくなってしまったどなたかには
どこか共感の欠片でも頂けるのやも知れません。

日が経ち落ち着きを取り戻して来た私に出来る事は
それこそ
描き続ける ことしかないのだと思います。

現在連載中の『かみさまのふね』は、主人公のモノローグ中心の、私の描き方としても少し異質な作品になっています。
とても個人的に、自分の為に描いているようなものでもあり
誰かに読んでもらえているのだろうかという漠然とした手探りはあります。
でも
今はそれでいいのでした。
“描き続ける”糧を保てています。

毎週の頁数を増やすより、この形式を毎週の慣習として続けた上で
別の事がやれるはずです。
というか
突き動かされるように 少しずつしてはいるのですが。

私はこうして、自分が描きたいから描いている、根本に立ち戻れてはいます。
ですが本当に、描きたいものを漠然と形にする、ずっと手放せない事を日常にしているだけです。
藤京ちゃん達のようにまっすぐ目指す場所があって高みへ高みへ他の何をも捨てて背中を丸めて一心不乱に向き合うような日々は
..若い頃はあったのだと思います
それでもそれはあんなにお互い誰かの背中を視ているような鮮烈に真っ直ぐなものというより
ただ闇の中でもがいていたような。
(持込周りの時、「がむしゃらに準備を考えずマラソンをしているようだ」と私を評する編集さんがおいでだったのを思い出します

前職を辞めたのは、フルタイムの仕事の中でそうして寝食を惜しんで描いて東京飛んで、を繰り返している中で、夜中に一度倒れ点滴を受けるような状態になり
病院のベッドの上でぼんやりと、「今の仕事を辞めよう」と思ったからなのでした。

前職で私は非常勤の立場を保ったまま、一部の正社員より高給を得ていて
それなりの評価を受けていて、でも 漫画以外で評価されてどうするんだという苦しみの中にずっといました。
プロになる事を目的とはしていないと言いながら いや 実際にそれはその通りであり 商業に踏み入ることは創作を生涯続ける上での一つの選択肢でしかないというのは実感としてあって
でも
どうせもがくのなら、それしかない世界の中でもがいていたかったのだと そこを抉り返されたのかも知れません。

これまで綴ってきたような諸々があって、そうした道を経てきたから描けたものや読んで頂けた方、沢山の経験や出逢えた人など、人生にifは無いものでは勿論あるのです。
それでも。

少しでも
どなたかに読んで頂ければ幸いです。
その為に積極的に発信する試みなども一時期ありましたが
それより
もっとちゃんと 描き続けるのが最優先として不器用にいるのでした。

果てしない長文をお読み頂き
誠に恐縮で御座います。

この映画と 私含む全ての創作に携わる方へ
祈りを込めて。

それこそ京本ちゃんのスケッチブックじゃないですけど
デジタル移行した今でも
積み上がったアナログ原稿が自分のこれまでを思い出させてもくれるのに
(これは2022年8月、丁度かみさまのふねの連載を始める直前に突然発掘された古い古い原稿群のほんの一部でした


🎥おまけ 
ウチの子の記念撮影

恒例の、創作のウチの子の記念撮影添えておきます。(使用アプリ:カスタムキャスト
(※この場所を占拠して編集していた訳ではありません

この日は物凄い豪雨だったんですよね


皆入場者特典タツキネームブックを掲げて写真撮ってたので私も真似してみたのでした


下書き熟成し倒しましたが
本日は気付けば丁度
漫画『ルックバック』公開3周年の日です(巡り会わせ.。.:*


インフォメーション*

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(※続きの文字は御礼文面です
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