読書記録 異邦人・地球星人・海と毒薬
最近、家を快適な空間にすることに成功したせいか、現実から目を逸らそうとする余りか、あまりに自分が内省的に生きることが身の丈に合っていると気づいたせいか、要因なんていくらあったっていいのにこうしていつものようにダラダラとそれらしい理由づけをして、そんな状態に安心しながら、結局言いたいのは、本を読むということが今までの人生で1番捗っていますということです。今日は社会的に絶対にやらなければいけない他のことがあったのですが、というかあったゆえに3冊の本を一気に読むことができたので、失ったら今日という日に価値が見出せなくなりそうなので、その感想を今のうちに書きます。
1冊目 異邦人/カミュ
思った以上に難解な文章だったというのが正直な感想でした。
そもそも、外国人作家の文章を没入しづらいとどこかで自分が線を引いてしまっているということもあるかもしれないです。
ネットの考察などを読むと、不条理文学の定番であり、合理的な価値観でムルソーを批評しようとする世の中を浮き彫りにした名作であると書かれているものが多く、そう考えるのがいいのだなと思いました。
中でも特に自分は、生きていることに意味なんてないんだというような考え方が響きました。生きていることに意味はないと自分自身よく思っているのでよく言ってくれたと思いました。合理的な判断で納得し、安心しようとするというのは一種のこの世で生きていく上での安心材料のようなところがあると思います。実際には世の中に意味なんてないし、無秩序の自分以外のもので覆われているという底知れない恐怖に線引きをすることができているんだと思います。
最後に、西洋の人が書いた文章なのに神と相対するような発言が多くなんとなくびっくりしました。
2冊目 地球星人/村田沙耶香
すごく読んでいて楽しい文章でした。
人間社会を工場に例え、そのレールに乗り切ることができずに、その工場を工場外部から見るという視点を得てしまった主人公たちを宇宙人の目を持ったというふうに捉えることで、どこか社会問題でもあるはずのことを、少し軽い気持ちで読むことができたという風に思いました。
主人公の家庭環境、幼少期に受けた性的虐待、人を殺してしまったという経験、また主人公を含む宇宙人の目を持った人物たちが行う、または行おうとする、近親相姦、殺人、人肉を食べるといった行為がリアルではなく描かれる凄みがありました。ここでまず思ったのは、こうした行為を描き出すことで、必ずしも様々な理由によって宇宙人側になった人々の行動が正しいと言うわけでもなく、一つの多様性の中における行動だと相対化して考えさせる狙いがあるのかと思い感動しましたが、次に思ったのがそもそも正しいと言うわけでないと思っている時点で、自分は地球星人他ならないと言うことでした。
この本を読む中で特に一番印象に残ったのは、工場であるということに疑問を持たない人物たちが、その工場たるを素晴らしく語るというシーンでした。やはりこれは、現代社会において持っている側の者であるという、つまり、逸脱していないという自覚を確認するための行動なのだろうと思いました。という点で言うと、朝井リョウの正欲を読んだ時のような、人間誰しも自分の生き方に意味などないと根源的に気づいている故に、こうして多様性の側から多様性ではない側を勝手に見定めて好き勝手に反応するのだろうなと言う感想に至り、なんか異邦人を読んだ後と余り遠くないところに自分の気持ちがありました。
3冊目 海と毒薬/遠藤周作
今日読んだ本の中で1番細部まで拾いたい気がしてとてもじっくり読みました。
まずこの本は戦時中の米国捕虜に行った人体実験というかなりセンセーショナルな話題が中心に据えられてはいるのですが、読んでみると意外とこの事件がありありと描かれているというのではなく、むしろ様々な登場人物のエピソードの一つとして出てくるという風に受け取られました。こういったところから、まずは戦時中という時代背景というのも描かれているのかなと思いました。
解説を読むと、神という絶対的支柱、判断基準を持たない日本人ということがテーマに据えられているようであり、戸田という登場人物が繰り返し見せる、社会や世間的にダメという視点以外で物事を判断できないという価値観、実験を手伝った看護師の頭の多くを占める、気に食わない西洋人への恨みによって行動を決める、などといった描写はその様子を綺麗に描き出していると思いました。
そうしてそんな彼らに海という大きな存在が干渉する様な描写が多いのですが、遠藤周作の深い河を読んだ経験から、勝手に水系のものに託しがちなのかなとか考えました。すみません。
そうして、これもまた、異邦人とそしてさらに地球星人と共通すると思ったのですが、私は、意味のない無秩序な世界において、意味を見出そうとする人間の営み、そうしてまたそれが神様という絶対的な支柱に支えられているということが少ないとされる日本人がその代わりに行うこととはという様に結びつけて考えてしまいました。本当に勝手にすみません。