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「愚」(一)~儒家


「愚」

 「愚」は、中国最古の字書『説文解字せつもんかいじ』の「心部」に、

おろかなるなり、心に従いに従う。禺はさるの属なり、獣の愚かなる者なり。

とある。「愚」字を構成する「禺」を愚かなサルのことだとしている。

一方、白川静『字統じとう』には、

禺は水神の名とされることが多いが、その実体は明らかでなく、字形からみて、頭部の大きな爬虫類であろう。

とある。「禺」は爬虫類のことであろうとしている。

いずれにしても、「愚」はヒトの知性を持たない動物レベルの「心」のことを表す文字である。

清・段玉裁だんぎょくさい『説文解字注』には、

愚者は、智の反なり。

とある。「愚」は「智」と相対する語であり、才智が働かないさま、智恵や分別の無いさまを言う。

儒家の語る「愚」

『論語』には、「愚」の用例が6カ所に見られる。

(一)学問しない「愚」

「陽貨」篇に、次のようにある。

仁を好みて学を好まざれば、其のへいや愚。
知を好みて学を好まざれば、其の蔽やとう
信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊。
直を好みて学を好まざれば、其の蔽や絞。
勇を好みて学を好まざれば、其の蔽や乱。
剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂。

「仁」「知」「信」「直」「勇」「剛」の徳目において、これらを好むも学問を好まないと陥りがちな弊害として、「愚」「蕩」「賊」「絞」「乱」「狂」を挙げている。

「愚」は、学問をしないことにより、智恵を欠き是非の判断ができず、愚昧無知であることを言う。

すなわち、上に挙げた字解に沿って言えば、学問をしないためにヒトの知性を得るに至っていない動物の心の状態であることを言う。

(二)変わらない「愚」

「陽貨」篇に、次のようにある。

唯だ上知と下愚とは移らず。

最上の知者と最下の愚者は、変わりようがないとするものである。

「下愚」は、もうどうすることもできないので、教育の対象から切り捨てられる存在である。

(三)愚ではない「愚」

「為政」篇に、孔子が顔回がんかいについて語った一節が見える。

吾、回と言うこと終日、違わざること愚なるが如し。退きて其の私を省みれば、亦た以て発するに足る。回や愚ならず。

ここでは、孔子第一の高弟顔回について語っている言葉であるゆえに、原義を超えた意義を含んでいる。

貧困の中で「道」を楽しむ顔回について、孔子は「賢なる哉、回や」(「雍也」篇)と讃えている。

饒舌に議論を挑むことなく、寡黙であたかも愚か者のように見える人物が、実は真の賢者であることを語っている。

(四)いつわりの「愚」

「公冶長」篇に、衛国の大夫甯武子ねいぶしについて語った一節がある。

甯武子は、くにに道有れば則ち知、邦に道無ければ則ち愚。其の知は及ぶべきも、其の愚は及ぶべからざるなり。

漢・荀悦じゅんえつ王商論おうしょうろん」にも「甯武子は愚をいつわり、接輿せつよは狂と為る」とある。

甯武子の「愚」は、「佯愚」すなわち「愚」を装うものであり、「佯狂」と同じく、明哲保身の処世態度を言うものである。

「愚者」や「狂者」として振る舞うことは、時勢を見据えて臨機応変に行動し、賢明に出処進退を見極めて災禍を避けるという所作であり、乱世における知識人のしたたかな智恵であった。

(五)まっすぐな「愚」

「陽貨」篇には、太古の民が保持していたものを今の人々が喪失してしまっていることを孔子が嘆いた一節がある。

古の狂や、今の狂や蕩。
古の矜や廉、今の矜や忿戻ふんれい
古の愚や直、今の愚や詐のみ。

「狂」「矜」「愚」は、いずれも人の気質における偏向や欠陥を言うものであるが、孔子は、これらを必ずしも否定はしていない。

同じ「狂」でも、「蕩」(勝手放題)ではなく「肆」(自由奔放)なものであれば、それは良しと認めている。

「愚」についても、「直」(まっすぐ)なもの、すなわち「愚直」なものであれば、人間の本来あるべき姿として、むしろ肯定的に語っている。

(六)長所である「愚」

「先進」篇で、孔子は弟子たちを評して、次にように語っている。

さいや愚、しんや魯、へきゆうがんなり。

孔子は、高柴こうさい曾参そうしん子張しちょう子路しろをそれぞれ「愚」「魯」「辟」「喭」と評している。

いずれも、基本的には貶義の評語であり、弟子たちの欠点を指摘したものであるが、孔子は彼らを譴責しているわけではない。

これらは、各人の性格上の特質であり、短所ではあるが、見方によっては長所ともなりうるものである。

高柴の「愚」について、何晏かあん『論語集解』は「愚直の愚」と解釈し、朱熹しゅき『論語集注』は「愚者は、知足らずして厚余り有り」と注釈している。

つまり、愚かではあるが真っ直ぐであること、智恵は劣るが人としての敦厚さに富むことを言うものである。

孝行を以て称される曾参を「魯」(鈍い)と呼んでいるのも、ただ機転の鈍さを貶しているわけではなく、そうした魯鈍な性格の中にこそ、質朴で篤実な人間性を見ているのである。

『論語』において「愚直」「魯鈍」であることに肯定的な評価が与えられるのは、裏を返せば、そうでない人間、つまり利発で能弁な人間が、聡明であるがゆえに往々にして狡猾で功利的であることを示唆しているのである。

まとめ

「愚」字は、基本的には、原義である貶義で用いられるものである。

「愚蒙」「愚昧」「暗愚」「庸愚」など、他者について言えば侮蔑や譴責の意となり、自身について言えば自嘲や自卑の謙称となる。

しかしながら、『論語』の中では、上で見てきたように、「愚」字は必ずしも貶義ではなく、褒義にも用いられている。

そもそも「愚」という人物形象は、ある意味で、孔子の好みでもあった。

利発で狡猾な「巧言令色」型の人間よりも、質朴で敦厚な「剛毅木訥」型の人間を高く評価する視点からすれば、「愚直」「魯鈍」などは、悪しき性格ではなく、不器用で小賢しさを欠くがゆえに、むしろ誠実で淳朴な性格として肯定的に評価されているのである。

 

*本記事は、以下の記事の一部を簡略に改編したものである。



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