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「愚」(三)~唐詩


詩語としての「愚」

「愚」は字面のよくない文字である。
漢詩には似つかわしくない文字のように見えるかもしれない。

ところが、「狂」や「痴」などと同じく、「愚」は、原義がマイナスの語気でありながら、漢詩、とりわけ唐代以降の古典詩の中にしばしば現れ、作品に思索的な趣を与えている詩語の一つである。

以下、「愚」の意義を便宜的に4つのカテゴリーに分けて、唐詩から用例を挙げながら、詩語としての「愚」の諸相を概観してみたい。

一 「愚蒙」

『全唐詩』全900巻には、計374個の「愚」字の用例が見られる。
その大半は、原義の「おろか」という貶義で用いられている。

詩において人を「愚」と呼ぶのは、智能や学識の低さを言うものではなく、道理を悟らぬこと、人生を誤っていることを指して言う場合が多い。

「愚」字は、詩人自身と価値観が異なる者に対して向けられる。

白居易の「凶宅」に、次のように歌う。

嗟嗟俗人心  嗟嗟ああ 俗人の心
甚矣其愚蒙  甚しいかな 其の愚蒙ぐもうなる
但恐災將至  但だ災のまさに至らんとするを恐れ
不思禍所從  禍のる所を思わず

権勢を誇り利禄を貪る「俗人」(高位高官)が、権勢・利禄こそが身を滅ぼす禍の元であるという道理を悟らないさまを「愚蒙」と呼んでいる。

李白の「古風」(其二十三)は、次のように歌う。

人生鳥過目  人生 鳥の目を過ぐるがごとし
胡乃自結束  なんぞ乃ち自ずから結束するや
景公一何愚  景公けいこう 一に何ぞ愚なる
牛山淚相續
  牛山ぎゅうざん 涙 相

斉の景公が、かつて牛山に登り人の命に限りあることを痛み悲しんだという故事を引いて、その行為を「愚」としている。

この詩の主旨は、儚い人生であるからこそ存分に楽しむべしとする享楽主義的人生観を歌ったものであり、悲嘆の涙を流すなどは愚の骨頂だというのである。

二 「愚直」

「愚」字は、他者に対してのみでなく、自分自身のことを言う第一人称の語としても常用される。

通常は、「愚臣」「愚生」などのように、相手(多くの場合、天子や上官)に対して自らを卑下して称するものであるが、詩の中で「愚」を自称する場合は、必ずしもそうした慣用的な謙譲語として用いられるわけではない。

高適の「秋日作」は、次のように歌う。

雲霄何處托  雲霄うんしょう 何れの処にか托す
愚直有誰親  愚直ぐちょく 誰か親しむもの有らん
舉酒聊自勸  酒を挙げて いささか自ら勧む
窮通信爾身  窮通きゅうつう なんじが身にまかさん

「愚直」は、「古の愚や直なり」(『論語』「陽貨」篇)を典拠とする詩語であり、詩人の剛直な気概を示すものである。

杜甫はしばしば自らを「愚」と称しているが、それは、字面通りの自己卑下の称ではない。

例えば、「上韋左相二十韻」は、次のように歌う。 

才傑俱登用  才傑さいけつ ともに登用せられ
愚蒙但隱淪  愚蒙 但だ隠淪いんりん
長卿多病久  長卿ちょうけい 多病 久しく
子夏索居頻  子夏しか 索居さくきょ しきりなり

自らを世間から隠れて沈淪する「愚蒙」としながらも、その一方で、消渇を患った長卿(司馬相如)や、離群索居した子夏(孔子の弟子)に自らの境遇を重ね合わせて歌っている。

また、「自京赴奉先縣詠懷五百字」には、次のようにある。

杜陵有布衣  杜陵とりょう布衣ふい有り
老大意轉拙  老大にして 意はうたた拙なり
許身一何愚  身に許すこと 一に何ぞ愚なる
竊比稷與契  ひそかに比す しょくけいとに

世渡り下手な老いぼれの平民でありながら、愚かしくも自分を舜帝の賢臣であった稷や契に比している、と自らのことを歌っている。

杜甫は、政界で志を得ない所以を自分自身の「愚直」な性癖に帰している。
天下国家を事とする儒家的使命感を以て「愚忠」を貫いた杜甫であるゆえ、「愚」という自虐的な響きの中にも、尊大なまでの自負心を看取することができる。

三 「賢愚」

「愚」と並列させて、または対偶の形で、反義の詩語として対照的に用いられるのが「賢」である。

「賢者」と「愚者」は、異質のものとして歌われるよりも、むしろ「畢竟、人間である限り同じ存在である」という視点で歌われることが多い。

杜甫の「寄薛三郎中」に、

人生無賢愚  人生 賢愚無く
飄颻若埃塵  飄颻ひょうようとして埃塵あいじんごと

とあり、また白居易の「對酒」に、

賢愚共零落  賢愚 共に零落し
貴賤同埋沒  貴賤 ともに埋没す

とあるように、いつかは死んで滅び去る運命においては「賢者」も「愚者」も何ら異なる所はない、と歌っている。

「賢愚」を歌った詩には、「賢者」と「愚者」に対する社会通念を顛倒させて歌うものもしばしば見られる。

白居易の「澗底松」は、次のように歌う。

貂蟬與牛衣  貂蝉ちょうせん牛衣ぎゅうい
高下雖有殊  高下 ことなる有りと雖も
高者未必賢  高者 未だ必ずしも賢ならず
下者未必愚  下者 未だ必ずしも愚ならず

「高」(貴)と「下」(賤)が、必ずしも常に「賢」と「愚」にそれぞれ結びつくわけではないとしている。

同じく白居易の「感所見」には、次のようにある。

巧者焦勞智者愁  巧者は焦労しょうろうし 智者は愁う
愚翁何喜復何憂  愚翁は何をか喜び 復た何をか憂う
莫嫌山木無人用  嫌うなかれ 山木の人の用うる無きを
大勝籠禽不自由  大いに籠禽ろうきんの自由ならざるにまさ

世俗の通念に反して、「巧者」や「智者」よりも泰然自若とした「愚者」や自由気ままな「無用者」の方がましだ、と歌っている。

こうした道家流の逆説的な物言いの中に、白居易独自の達観した人生哲学を窺い見ることができる。

四 「佯愚」

「愚」字を以て処世観を歌う思索的な詩の中では、『論語』「公冶長」篇に「くにに道有れば則ち知、邦に道無ければ則ち愚」とある甯武子ねいぶしの一節がしばしば典故として用いられる。

甯武子は、「佯愚ようぐ」すなわち「愚」を装う明哲保身の処世態度で知られる。

白居易の「放言」(其一)は、次のように歌う。

朝眞暮僞何人辨  朝真暮偽ちょうしんぼぎ 何人なんびとか弁ぜん
古往今來底事無  古往今来こおうこんらい 底事なにごとか無からん
但愛臧生能詐聖  但だ愛す 臧生ぞうせいが能く聖をいつわるを
可知甯子解佯愚  知るべし 甯子ねいしく愚をいつわるを

魯の大夫臧文仲ぞうぶんちゅうは「知者」と目されていた人物であるが、分をわきまえない一面があり、『論語』の中で孔子が「何如ぞ其れ知ならんや」(「公冶長」篇)と非難している。

臧文仲は、いわば「聖」を詐るニセの「知者」であり、「愚」を装う甯武子こそが真の「知者」であると歌う。

張九齢の「登荊州城樓」に、

直似王陵戇  直なること 王陵おうりょうおろかに似て
非如甯武愚  甯武の愚にくこと非ず

とあり、また、杜牧の「歙州盧中丞見惠名醞」に、

醺醺若借嵇康懶  醺醺くんくんとして 嵇康けいこうらんを借るが若く
兀兀仍添甯武愚  兀兀こつこつとして 仍お甯武の愚に添う

とあるように、甯武子の「愚」は、直言を好んだ王陵の「戇」(馬鹿正直)や身なりに無頓着な嵇康の「懶」(ものぐさ)と並べて歌われている。


まとめ

「愚」は、原義が貶義であるがゆえに、一旦褒義に転換されると、ことさら強い自己主張を伴う概念となる。

中国古代の詩人が「愚」を自称するのは、上辺の謙遜や自己卑下であって、本心から自分を愚かと思ってるわけではない。

詩人は、ほとんどの場合、職業は役人である。学識と詩才を求められる科挙の難関をくぐり抜けてきたエリートである。「愚」は、最も彼らに似つかわしくない文字なのである。

そうであるにもかかわらず、詩人は「愚」を自任し、自負の念を以て「愚」を歌った。時には、知恵者を退けて「愚者」を尊び、時には、明哲保身の「佯愚」を讃えている。

それは、「狂」や「痴」と同様に、貶義から褒義に転換した「愚」の概念に自らの人生美学を託した文人精神の表象にほかならない。


*本記事は、以下の記事を簡略に改編したものである。


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