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【心に響く漢詩】曾鞏「虞美人草」~ヒナゲシになった寵姫の魂

虞姫

 虞美人は、秦末の楚の武将、項羽の寵姫でした。

 秦が滅びると、項羽と劉邦が天下を争います。
 一進一退の攻防の末、ついに、項羽の軍は、劉邦・韓信らの連合軍に追い詰められ、垓下に立て籠もります。

 「四面楚歌」の中、項羽が、寵姫の虞美人を前にして歌います。 

  力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う  
  時利あらず 騅逝(ゆ)かず
  騅の逝かざる 奈何(いかん)すべき
  虞や虞や 若(なんじ)を奈何せん

力は山を抜き、気は世を覆う。しかし、時に利無く、騅は進もうとしない。騅が進もうとしないのをどうすればよいのか。虞よ、虞よ、お前をどうすればよいのか。

 『史記』「項羽本紀」では、虞美人に関する記述は、これだけです。

 ところが、後世、虞美人はこのすぐあとに自尽したという話になり、二人の悲劇は、さまざまに潤色されながら、民間に語り継がれていきます。

 京劇でも「覇王別姫」という演目で演じられています。

 詳しくは、こちらの記事をご参照ください。↓↓↓

 虞美人の故事は、詩にも多く歌われています。
 
 中でも、曾鞏(そうきょう)の七言古詩「虞美人草」が有名です。

 曾鞏(1019ー1083)は、北宋の政治家です。
 文章家としても高名で、「唐宋八大家」の一人に数えられています。

 「虞美人草」は、垓下で項羽に殉じて自刃した虞美人(=虞姫)を悼み、人の世の儚さを歌ったものです。

  鴻門玉斗紛如雪
  十萬降兵夜流血
  咸陽宮殿三月紅
  霸業已隨煙燼滅

鴻門(こうもん)の玉斗(きょくと) 紛(ふん)として雪(ゆき)の如(ごと)し
十万(じゅうまん)の降兵(こうへい) 夜(よる) 血(ち)を流(なが)す
咸陽(かんよう)の宮殿(きゅうでん) 三月(さんげつ)紅(くれない)なり
覇業(はぎょう)已(すで)に煙燼(えんじん)に随(したが)いて滅(ほろ)ぶ

――鴻門の会で、項羽が劉邦を取り逃がし、怒った范増は、張良の献じた玉斗を雪が舞うように粉々に砕いた。
 これより以前、項羽は、夜襲をかけて、十万もの秦の降兵を惨殺し、多くの血が流れた。
 秦が滅ぶと、項羽は、咸陽の宮殿に火を放ち、炎は3カ月もの間、天を赤く染めて燃え続けた。
 こうして、暴虐な項羽は、人心を失い、天下取りの野望も煙燼と共に消え去った。

 「鴻門」は、陝西省臨潼県の東。項羽と劉邦が会見した地です。
 劉邦は、剣舞による謀殺の気配を感じて、自陣へ逃げ帰りました。

 「玉斗」は、玉製の酒器。劉邦が逃げる際、張良に託して、項羽の参謀、范増に贈った手土産です。范増は、項羽が劉邦を取り逃がしたことを怒り、玉斗を粉々に叩き割りました。

 「鴻門の会」について、詳しくはこちらをご参照ください。↓↓↓

 「十万降兵」は、 項羽が、楚に投降した秦の兵を大量虐殺したことを指します。「項羽本紀」に、「楚の軍、夜撃ちて、秦の卒二十余万人を新安城の南に坑(あな)にす」とあります。

 「咸陽」は、秦の都。陝西省西安の西北にありました。
 「宮殿」は、 阿房宮のこと。始皇帝が、咸陽の南、渭水のほとりに建てた宮殿です。 「項羽本紀」に、「項羽、咸陽を屠(ほふ)り、秦の降王子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼く。火、三月滅せず」とあります。

 「覇業」は、武力で天下を統一することをいいます。

  剛強必死仁義王
  陰陵失道非天亡
  英雄本學萬人敵
  何用屑屑悲紅粧

剛強(ごうきょう)なるは必(かなら)ず死(し)し 仁義(じんぎ)なるは王(おう)たり
陰陵(いんりょう)に道(みち)を失(うしな)いしは 天(てん)の亡(ほろぼ)せるに非(あら)ず
英雄(えいゆう) 本(もと)学(まな)ぶ 万人(ばんにん)の敵(てき)
何(なん)ぞ用(もち)いん 屑屑(せつせつ)として紅粧(こうしょう)を悲(かな)しむを

――古来、剛強なる者は、いずれ必ず亡び、仁義なる者は、人心を得て王者となる。
 項羽が、陰陵で道に迷い、ついに死地に陥ったのは、天が項羽を亡ぼしたのではなく、項羽自身が亡ぼしたのだ。
 英雄項羽は、もともと万人を相手とする兵法を学んだはずであった。
 それなのに、何故、たった一人の美人のために、くよくよと別れを悲しんだりしなければならなかったのか。

 「剛強」は、武力が強く、勇猛な者。項羽を指します。
 「仁義」は、思いやりがあり、行いが正しい者。劉邦を指します。

 「陰陵」は、安徽省定遠県の西北。敗走する項羽は、陰陵で道に迷います。道を尋ねた農夫に騙されて、沼沢地に入り込み、漢軍に追いつかれてしまいます。「項羽本紀」に、「項王、陰陵に至り、迷いて道を失う。一田父(でんぷ)に問う。田父紿(あざむ)きて曰く、左せよ、と。左す。乃ち大沢の中に陥る」とあります。

 敗走する中、項羽は、手勢の騎兵に向かって、自分の敗北は、「此れ天の我を亡ぼすにして、戦いの罪に非ざるなり」と語りました。「非天亡」は、作者がこれを否定したものです。項羽の敗北は、天運ではなく、身から出た錆だ、自ら招いた結果だ、と歌っています。

 「万人敵」は、 万人を相手に戦う兵法。「項羽本紀」に、「項籍少(わか)き時、書を学びて成らず。去りて剣を学ぶ。又、成らず。項梁、之を怒る。籍曰く、書は以て名姓を記するに足るのみ。剣は一人の敵なり。学ぶに足らず。万人の敵を学ばん」とあります。

 「紅粧」は、化粧した美人。虞美人を指します。

  三軍散盡旌旗倒
  玉帳佳人坐中老
  香魂夜逐劍光飛
  靑血化爲原上草

三軍(さんぐん) 散(さん)じ尽(つ)くして 旌旗(せいき)倒(たお)れ
玉帳(ぎょくちょう)の佳人(かじん) 坐中(ざちゅう)に老(お)ゆ
香魂(こうこん) 夜(よる) 剣光(けんこう)を逐(おい)て飛(と)び
青血(せいけつ) 化(か)して原上(げんじょう)の草(くさ)と為(な)る

――項羽の軍は、四方に散って消え失せ、軍旗は地に倒れている。
 玉をちりばめたような美しいとばりの中で、虞美人は、その場で瞬く間にやつれ果ててしまったかのようだ。
 自刃した虞美人の魂は、夜の闇の中、剣の光を追うかのように、宙を舞って飛び去った。
 生々しい鮮血は、土を真っ赤に染め、やがて野原の花と化した。

 「三軍」は、諸侯の率いる大軍。項羽の軍を指します。
 「佳人」は、美人。虞美人を指します。

 「香魂 」は、虞美人が自刃し、肉体から遊離した霊魂を言います。
 「剣光」は、キラリと光る剣の光。虞美人は、項羽の不意を突いて、項羽の腰から剣を抜き取って自刃したと伝えられています。

 「青血」は、色鮮やかな血。自刃した虞美人の血が化して野草となり、これが「虞美人草」と呼ばれるようになりました。
 民間伝承では、虞美人を埋葬した墓に赤い花が咲いたので、人々はこれを虞美人草と呼んだ、と語られています。日本では、ヒナゲシの別名となっています。

ヒナゲシ

  芳心寂寞寄寒枝
  舊曲聞來似斂眉
  哀怨徘徊愁不語
  恰如初聽楚歌時

芳心(ほうしん) 寂寞(せきばく) 寒枝(かんし)に寄(よ)る
旧曲(きゅうきょく) 聞(き)こえ来(きた)りて 眉(まゆ)を斂(おさ)むるに似(に)たり
哀怨(あいえん) 徘徊(はいかい) 愁(うれ)えて語(かた)らず
恰(あたか)も初(はじ)めて楚歌(そか)を聴(き)ける時(とき)の如(ごと)し

――芳しい魂は、もの寂しげに、寒々とした野原の草に寄りかかっている。
 世の人々が「垓下の歌」を歌うと、虞美人草の葉は、眉をひそめて悲しむかのようだ。
 哀しみ怨んで、草は、徘徊するかのように風にまかせて揺れ動き、愁いて何も語らない。
 あたかも、虞美人が初めて項羽の「垓下の歌」を聞いた時のようだ。

 「旧曲」は、垓下で漢軍に包囲された時、項羽が歌った歌。(前掲)
 なお、これに虞美人が唱和して、「漢兵 已に地を略(おか)し、四方楚歌の声、大王 意気尽くに、賤妾(せんしょう)何ぞ生に聊(やす)んぜん」(漢軍はすでに楚の地を攻略し、四方から楚国の歌が聞こえてくる。大王様の意気も尽き果ててしまったからには、どうしてわたくしめだけ生きていられましょうか)と歌ったと伝えられています。

 「斂眉」は、眉をひそめる。虞美人草は、この曲が聞こえてくると葉を揺らすと言われており、その様子を喩えたものです。

 「楚歌」は、楚の地方で歌われていた民謡調の短い詩。ここでは、項羽の「垓下の歌」(前掲)を指します。

  滔滔逝水流今古
  漢楚興亡兩丘土
  當年遺事久成空
  慷慨樽前爲誰舞


滔滔(とうとう)たる逝水(せいすい) 今古(きんこ)に流(なが)る
漢楚(かんそ)の興亡(こうぼう) 両(ふた)つながら丘土(きゅうど)
当年(とうねん)の遺事(いじ) 久(ひさ)しく空(くう)と成(な)る
樽前(そんぜん)に慷慨(こうがい)して 誰(た)が為(ため)にか舞(ま)わん

――滔々と流れ去っていく大河の水は、今も昔も変わりなく流れている。
その昔、漢と楚が天下を争った興亡の地は、今や丘の土と化してしまった。
 当時の出来事は、久しい歳月の間に、何もかも空しく消え去った。
 わたしは、虞美人を偲んで、酒壺の前で悲しみ嘆く。嗚呼、項羽亡き今、この草は、いったい誰のために舞っているのだろうか。

 「逝水」は、流れ去る水。時が元に戻らないことを喩えます。『論語』「子罕」篇に、「逝(ゆ)く者は斯(か)くの如きか、昼夜を舎(お)かず」とあるのを踏まえています。

 「丘土」は、小高く土を盛った墓を意味します。いにしえの英雄豪傑も、今はもういないという感慨を表しています。

 「慷慨」は、憤懣や悲嘆で感情を高ぶらせることを言います。ここでは、作者は、項羽に殉じた虞美人を憐れむ一方、項羽の非を責めて憤る意を込めています。

 曾鞏の「虞美人草」は、詠史詩(歴史を題材とした詩)です。

 詠史詩は、ただ歴史故事を詩的表現で懐古するだけでなく、多くの場合、作者の思想や政治的志向が強く反映されます。

 この詩は、虞美人の悲運を哀悼する詩ですが、儒家思想の立場から、項羽を批判する意図を含んでいます。

 曾鞏が項羽を批判する所以は、項羽の「覇道」にあります。

 『孟子』の「公孫丑上」に、次のような一節があります。

力を以て仁を仮(か)る者は覇たり。覇は必ず大国を有(たも)つ。
徳を以て仁を行う者は王たり。王は大を待たず。
湯(とう)は七十里を以てし、文王は百里を以てす。
力を以て人を服する者は、心服に非ざるなり。力贍(た)らざればなり。


「力」(武力)を用いながら「仁」を行っているように見せかけているのは「覇」(覇者)である。覇者は、必ず広大な領土を保有する。
「徳」を以て「仁」を行う者は、「王」(王者)である。王者は、広い領土を保有する必要はない。
殷の湯王は、七十里四方の小さな領土から国を興し、周の文王は、百里四方の小さな領土から国を興した。
武力を用いて人々を服従させるのは、人々が心から服しているのではない。人々は抵抗する力が足りないから、やむを得ず服従しているだけだ。

 項羽は、武力によって天下を取ろうとした典型的な覇者です。

 詩の中では、「剛強なるは必ず死し、仁義なるは王たり」とあるように、劉邦が「仁義」を以て王道を成し遂げたのに対して、項羽は、武力に頼って滅びたと歌っています。

 儒家を信奉する曾鞏の立場からは、「西楚の覇王」と自ら号した項羽は、まさにその「覇」ゆえに亡んだ。そして、その男に殉じた虞美人は、何とも不憫だ、ということになります。

 しかし、士大夫の間での評価はさておき、一般大衆の間では、項羽は絶大な人気があります。

 『史記』では、項羽は、悪逆非道な反面、「人と為り忍びず」「仁にして人を愛す」など、情に厚い人物にも描かれています。

 豪放磊落、勇猛果敢、一騎当千の武将、直情径行型の「熱い男」、そして何よりも、一時は天下に号令した希代の英雄です。

 京劇「覇王別姫」では、観衆は、虞美人の悲劇に涙する一方、項羽の勇姿にも惜しみない拍手喝采を送っています。

 民衆の目には、項羽は、覇者であっても、決して悪者ではないのです。

 項羽が永遠の「愛されキャラ」である所以です。


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