陶淵明「形影神」を読む~3人の陶淵明が語る「限りある人生の生き方」
陶淵明「形影神」
田園詩人・隠逸詩人として名高い陶淵明の五言古詩三部作である。
陶淵明自身を「形」(肉体)と「影」(分身)と「神」(精神)の三者に分け、限りある人生の生き方、そして誰もが避けることのできない死の問題について、三者の言を借りて議論を展開し、自己の内面を語る。
詩人陶淵明の思想を理解する上で必読の作品である。
【序】
【形贈影】
「形影神」三部作は、まず「形」(肉体)と「影」(分身)がそれぞれの主張を述べ、それらを踏まえて、「神」(精神)が議論を総括する、という構成である。
「形」の主張は、「永遠の生命が望めないのなら、せめて与えられた短い人生を大いに楽しもうではないか」というものである。
儚い人生に対する悲哀・諦念を背景とした享楽主義によるものであり、
これは、古来、中国の文人が取ってきた典型的な処世態度の一つである。
魏の曹操の「短歌行」は、次のように歌い起こす。
また、漢代の「古詩十九首」(其十五)は、次のように歌う。
人の世の無常に悲哀と諦念を抱きながら、しかし、同時に、だからこそ、せめて生きている間は大いに飲んで歌って楽しもう、という楽観的人生観、享楽主義的処世観がよく表れている。
「形」の主張の中に、「仙人になる術もない」云々という詩句があるが、これは、陶淵明が生きた東晋の時代、神仙説が流行したことが背景にある。
葛洪の『抱朴子』は、仙人の心得、修行の方法、金丹の製錬方法を説いている。仙人になるための指南書だ。死の問題に直面した時、道教の信奉者たちは、死なない道を求め、本気で不老長生を目指したのである。
陶淵明はリアリストであり、こうした神仙説を信じてはいなかった。死は不可避なものという前提で、生と死の問題に向き合っていた。
【影答形】
「影」の主張は、「生前に努めて善行を積み、死後に名を残すべし」というものである。
同じく「古詩十九首」(其十一)に、
とあるように、栄誉・名声は、人々の念願するところであった。とりわけ、これは、「名」を重んじる儒家の価値観に基づく願望である。
「形」の主張する享楽主義が、古代中国人の処世観・死生観の一つの典型であるとすれば、「影」の主張する功名主義もまた、そのもう一つの典型であった。
「形」と「影」の発言は、どちらも陶淵明自身の考え方を反映したものである。全く相反する願望であるが、両者は、是非を競って退け合うものではなく、つねに陶淵明の心の中で共存していたものであったと思われる。
【神釋】
不可避の死の到来をいかに受け止め、死を前提として、今ある人生を如何に生きるか、という問題は、洋の東西を問わず、つねに文学・哲学の最大のテーマである。
「形」と「影」のいずれの生き方にも徹しきれない自分に対して、さらに第三の自分「神」が、最後に裁定を下すかのように語る。
「神」は、「形」と「影」の主張をいずれも退ける。
「神」の主張は、「あれこれ思い悩むのはやめて、自然の運行に身を任せ、天命に従って生きるのがよい」というものである。
これは、そのまま、陶淵明が自分の生き方を模索した末に到達した結論である。
一見、甚だいい加減な結論にも見える。心配事や悩み事を訴えている相手に対して「心配するなよ」「どうにかなるよ」と言うのと同じだ。
「神」の言葉に、建設的な提案らしきものは一つもない。
しかし、実は、常識的な見方、とりわけ儒家的な見方からすれば、いい加減な、建設的でない、成り行きまかせのように見える生き方こそ、老荘的な生き方を体現したものなのである。
「神」の提示した生き方は,、老荘思想の「無為自然」にほかならない。
すべてをありのままに受け入れ、何物にも順応して逆らうことなく、無理をせず、水のようにしなやかな生き方である。
「神」がここで言わんとするところは、陶淵明自身が「歸去來辭」の最後の二句で、次のように歌っている詩句の主旨と同じものである。
「歸去來辭」にこうした詩句が見られるということは、陶淵明は、帰隠を決意した時点で、すでに「神」が語ったような考え方を持っていたということになる。
「形」「影」「神」
「形」「影」「神」(肉体・分身・精神)の三者は、いずれもが陶淵明の心の一側面である。
「形」の主張する享楽主義的な生き方、「影」の主張する栄誉・功名を求める生き方は、いずれも「神」によって否定されたとは言え、陶淵明自身がそうした願望を持たなかったというわけではない。
特に、「影」の主張する生き方、すなわち官僚として出世し、後世に永く名を残すという願望は、当時の知識人に共通の絶対的価値観であり、容易に放棄できるものではないはずである。
作品中には、反語表現がとても多い。「形」「影」「神」が、互いに相手に対して反語で問いかけているものは、そのまま陶淵明が陶淵明自身に問いかけているものである。
三者の議論は、「神」が裁定を下して終結している。この結論は、陶淵明自身が心中の葛藤を経た末に選択した自分の生き方を示したものである。
作品に歌われている内容を素直に解釈すれば、陶淵明は、最終的に、老荘的な生き方を選ぶことによって、自分の心の方向性を定めたことになる。
これは、実生活における陶淵明の帰隠と関連しているであろう。
陶淵明は、地方長官(彭沢県令)の職を辞して、郷里に帰り隠棲した。
中国古代の詩人がすべてそうであるように、陶淵明も本業は役人である。帰隠の本当の理由がどうであれ、役人としての人生は挫折したことになる。
「中国人は、成功している時は儒家であり、失敗すると道家になる」と言われる。中国古代の知識人はみな、この二つの相反する価値観の間で揺れ動いたのである。
陶淵明の場合も、役人生活が順調であった間は「影」の主張する価値観が支配的であり、不如意なことが起きて栄達の道が閉ざされてはじめて「神」の主張に傾倒するようになった、と考えるのが自然であろう。
この五言古詩「形影神」の他にも、陶淵明には、自分自身の葬儀を想定して歌った野辺送りの歌である「挽歌詩」、自分自身に対する追悼文である「自祭文」など、死を主題とした独創的な詩文を残している。
酒と菊を愛した田園詩人・隠逸詩人という印象が強い陶淵明であるが、悠々自適の隠居生活を謳歌した詩人である一方、限りある人生を如何に生きるか、いつか必ず訪れる死を如何に受け入れるかを常に模索し苦悩し続けた詩人でもあった。