「傍若無人」
「傍若無人」
「傍若無人」(ぼうじゃくぶじん)は、訓読すれば「傍らに人無きが若し」である。「傍」は「旁」とも書く。
原義は、「周りに人がいても存在しないかのごとく、ただ自分のことだけに集中しているさま」であり、特にプラスにもマイナスにも含意はない。
ところが、派生義は、「他人を眼中に置かない高慢な態度」であり、横柄に我が物顔に振る舞うというマイナスの語気を含む。
現代中国語ではもっぱら派生義で用いられ、社会的マナーに反する行為や、公衆の面前で行うのは宜しくない行為などを言う。
日本語でも四字熟語として用いられる。『広辞苑』に、「人前を憚らずに勝手気ままに振る舞うこと」とあるように、やはり悪い意味で用いる。
荊軻の「傍若無人」
「傍若無人」の最も古い用例は、漢・司馬遷『史記』「刺客列伝」の「荊軻伝」に見える。
荊軻は、戦国時代の衛の人で、剣術に長けていた。燕の太子丹の命で、秦王政(のちの始皇帝)の暗殺に赴いた刺客である。
日ごと燕の盛り場で飲み、酒たけなわになると、高漸離の打ち鳴らす筑の音に合わせて歌い、やがて感極まって泣き出した。その様子を『史記』は、「傍若無人」と形容している。
この一節での「傍若無人」は、感情の昂ぶりが周りの人の存在を忘れさせる程であったことを言う。つまり、周囲の世界から独り隔絶されたかのように自分の世界に入り込んでいるさまである。
そして、続いて次のように記している。
荊軻は酒好きであっても、人となりは冷静沈着で書物を好み、賢者や有徳者と交わったと言う。現代語で言うところの「傍若無人」の徒ではない。
盛り場で歌いながら泣いたと記されているが、周囲の人々に不快感を与えたわけではない。そもそも「泣」は声を立てずに涙を流すことを言い、「哭」や「啼」のように大声を上げて泣くことではない。
魏晋の「傍若無人」
南朝宋・劉義慶の『世説新語』は、魏晋の名士たちの逸話を類別して収めた書物である。
『世説新語』の中には、「傍若無人」の語の用例、及びこの四文字を文面上は用いていなくとも「傍若無人」と見なされる言動を記した逸話が多く見られる。
「簡傲」篇、「豪爽」篇、「任誕」篇には、俗世の権威や慣習を眼中に置かず奔放不羈に振る舞った名士たちの逸話が数多く集められている。
阮籍
「任誕」篇には、阮籍が母親の葬儀で泥酔して弔問客に応対したという有名な逸話がある。
この逸話の劉孝標注では『名士伝』を引いて、阮籍の振る舞いを次のように記している。
阮籍は、最も厳格に礼法を遵守すべき親の葬儀で礼法に従わず、弔問客を眼中に置かない振る舞いをしたという。酔って髪を振り乱し両足を投げ出して座るさまを「傍若無人」と記している。
嵇康
鍾士季(鍾会)が嵇康の名声を聞いて、俊才たちを引き連れて訪ねた。鍛冶仕事をしていた嵇康は手を休めることなく、傍らに人無きがごとしだった。訪ねて来た客人を無視するという甚だ無礼な態度である。
嵇康は、魏王室と姻戚関係にあり、司馬氏の晋王朝においては難しい立場にあった。鍾会は司馬氏の腹心であり打ち解けた交友はもとより難しかった。しかも鍾会は貴公子として羽振りがよかったので、反俗的性格の嵇康はもともと快く思っていなかったのである。
王献之
王子敬(王献之)は、訪問の約束も取らずに顧辟疆の庭園を訪れ、遊覧し終わると、園林の良し悪しを品評し、傍らに人無きがごとくであった。
宴席に招待されていない者がいきなり席に入っていき園林の出来映えをとやかく論評するのは甚だ非常識であるが、園主を軽んじる意図はない。見事な園林の自然美に恍惚となって周囲が見えていなかったにすぎない。
王敦
武帝(司馬炎)が、名士たちを集めて技芸について語った。田舎者で話題についていけない王敦は、唯一自分が得意とする太鼓を打った。バチを振り上げ激しく打ち鳴らし、打つほどに気迫を増し、傍らに人無きがごとくであったという。
ここの「傍若無人」もまた、自分の打ち鳴らす太鼓の響きに没入し、恍惚となって周囲が見えていないさまを表す。
文人精神としての「傍若無人」
以上の例で明らかなように、「傍若無人」の古い用法は、横暴で人に迷惑をかけたり不快感を与えたりすることを表すものではない。
当時の名士たちによる「傍若無人」の行為には、二つの方向性を認めることができる。
一つは、周囲が見えているのに、あえて無視あるいは蔑視するという反発的な行為である。上の例では、阮籍・嵇康の逸話がこれに当たる。
もう一つは、周囲が見えなくなるほど自分の世界に没入するという凝集的な行為である。王献之・王敦の逸話がこれに当たる。
前者は、反俗的、すなわち世俗を強く意識してそれを非として反抗する姿勢を示す外向的な精神活動である。
後者は、超俗的、すなわち世俗のことが意識下になく、超然とした自己陶酔を示す内向的な精神活動である。
魏晋の反俗的な名士たちは、儒家の伝統的な礼法を軽んじ、それを杓子定規に遵守する人間を俗物として侮蔑し冷笑した。一方、超俗的な名士たちは、そもそも俗世のことに拘りが無いので、ことさら反俗的な姿勢を示すこともなく、ただ自分の精神世界に没入したのである。
魏晋の名士たちの逸話で一つ留意すべきことは、彼らの言動がしばしば一種の「ポーズ」としてなされていたということである。
魏晋という特異な時代背景を考えると、「傍若無人」の行為は、自分の反俗的な志向、あるいは超俗的な心態を顕示しようとするいわばパフォーマンスであった。
放誕で闊達な自由人がもてはやされた時代に在って、彼らはそうした時代思潮にふさわしい生き方をする必要があった。「傍若無人」は、正にそうした生き方を示すことができる典型的な所作だったのである。
「傍若無人」と「狂痴」
魏晋における「傍若無人」は、視点を変えれば、「狂」と「痴」の文人精神と密接な繋がりを持っている。
「狂」は、動的で外向きの発散性を示す。一方、「痴」は、静的で内向きの凝固性を示す。
前述のように、「傍若無人」の二つの異なる方向性として「反俗的な姿勢を示す外向的な精神活動」と「超然とした自己陶酔を表す内向的な精神活動」が認められるが、これはそのまま、前者が「狂」、後者が「痴」の方向性と一致する。
ここで例挙した数々の「傍若無人」の逸話は、あるものは「狂」、あるものは「痴」、そしてまたあるものは「狂」と「痴」を兼ね備えたもの、というように、「狂痴」の心態を語る逸話として読み直すことが可能である。
「傍若無人」は、いわば「狂痴」の精神が実際の行動として発露され具象化されたものとして捉えることができるのである。
*本記事は、以下の記事を簡略に改編したものである。