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もう名前も覚えていないけれど、倫理の先生と話がしたい。


これぞ、というものとの出会い。

その中でも、当初は気にも留めない場合。

日常の一部として普通に通り過ぎてしまって、

後から「ああ、あれはとても大事なできごとだったなあ」と思いつくようなこと。

今や日常の一部になった哲学というものと出会ったとき、当初はそこまで感動を覚えたわけではなかった。


高校2年生、社会科目で、倫理の授業が始まった。


なんと履修は1年間だけだという。短い。

倫理という科目についてなんら知識を持ち合わせていなかった私たちは、道徳の授業の延長のようなものかな、なんて話しながら指定の教室に向かった。

予想は、授業開始の瞬間に裏切られた。

生徒参加型の授業がとても上手な、はつらつとした先生だった。

道徳だとか、倫理観だとか、感情優先の精神論は一切なかった。

そこにあったのは、世界や人間に対して理解を深めようと取り組んできた人々の記録と、その記録への愛と熱意をもって語る先生だった。

今考えれば、善悪や感情の話を抜きに、ただただ事象を分析するという工程に、とても心が躍った。

今まで精神論で片付けられてきたものたちに、名前が与えられてゆくような。


そんな倫理の最初の授業で、先生はひとつだけ課題を出した。


「あなたが、自分を俯瞰的に意識するようになったのはいつごろですか?

また、そのきっかけがあれば教えてください。」


A4の藁半紙1枚に、たった2行の課題。

あとはすべて記入欄だった。

文字数で点数をつけたりはしないから、好きなように書いて、と先生は言った。

世界が自分を中心に回っているわけではなくて、自分が物語の主人公ではないと気づいた瞬間。人それぞれにとって、その人自身が主人公なのであるという事実を理解した瞬間。


なにも書けなかったことをとても悔やんでいる。


当時は、どうにも思い出せなかった。

先生の説明してくれたことは理解できたけど、今まで考えたこともなかったことを思い出すのにとても時間がかかってしまい、提出には間に合わなかった。

その後、倫理の履修も終わったあとに、とても鮮明に思い出した。


きっかけは、少女漫画だった。

小さい頃に友達に貸してもらった、「神風怪盗ジャンヌ」。

人生で初めての漫画であったその単行本に、おまけの短編集がついていた。

短編のひとつは、主人公の親友視点で描かれたものだった。

その短編のなかでは、いつも脇役の女の子が主人公だった。

読み終えてから気付いたのは、私もまた自分の友人たちにとって、彼女のような存在なんだということ。

その作品の中で、主人公は悩み、苦しみながらも恋を成就させ、夢を叶えた。

対して親友の女の子は、主人公に寄り添い、支え、応援しながら、自分の恋は実らせられなかった。

ずっと脇で応援していただけに見えた彼女にも、自我があって、彼女は彼女自身の物語をずっと生きていたのだ。


もちろん、作品のなかではきちんと脇役の人々の心情も描かれていたし、主人公が出てこないシーンもあった。

けれど当時10歳に満たなかった私が、主人公以外の目線で作品をみられるようになったのは、この短編がきっかけだった。


先生、お元気だろうか。

もしなにかの機会にお会いすることがあれば、絶対にこの話をしたいと思っている。

受験に没頭していた私は、必須科目でない倫理のテストでひどい点数を取った。

だけど先生の倫理の授業は毎回とても楽しみで、楽しくて、大学でもその方向に進もうか悩んだくらい。

受験戦争に追われていた私の、唯一の救いだったと言える。

結局、就職に有利になりそうな、迷っていたもうひとつの方向に進んでしまった。


それでも、入学した大学では文化人類学や心理学の授業をすべて履修して、ゼミでは哲学や現代思想の話をしたんです。

卒業論文では、哲学者から文化人類学者になった人物の作品について書きました。

もう、現代思想の虜です。


倫理の授業のなかで先生は、自分がなぜ倫理という科目に興味を持つようになったのか話してくれた。

最初はまったく違う方向に進んだこと。でも、小さなころからよく考えていたことが、倫理の授業で扱われるものそのものだったと気付いたこと。そこからそれまでしていたことをやめ、哲学の勉強を始めたこと。倫理の教師になるためには、まず社会科の教師になる必要があり、社会科の試験勉強が大変だったこと。今は、自分の研究の傍らで、生徒に倫理について教鞭を執りながら、生徒たちの実体験をきくことで新しい発見もあること。

当時は、そんな道もあるんだな、くらいに思っていた。

でも今は、痛いほどお気持ちがわかります。

私も別の道に進んだけれど、小さい頃からずっと考えていたことが倫理や哲学や心理学や現代思想で扱われていて、結局、そちらの世界に飛び込みました。

それは学生時代の期間限定で、仕事として扱うことはできませんでしたけど、叶うなら大学院で勉強を続けたいと夢見ています。

先生がジブリ作品や他の映画、曲の歌詞といった身近なものを教材にして教えてくださったことが、間違いなく今の自分を構成する一部です。

もし今一度お会いできることがあれば、定期試験でひどい点数を取ったことをしっかり謝ってから、

深く考えることが、怖いことではなく、むしろよろこびを伴うものであると教えてくれたことに、

精一杯のお礼を伝えたいと思う。



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