【第23章・大根の葉】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)
第二十三章 大根の葉
「よく働きますね」
「ああ、いい景色の夫婦だ」
夏の朝、隅田川の河口近く、鉄砲洲の裏店の小さな八百屋で、若い夫婦がその日の商いを始める準備をしている。妻は夫が仕入れてきた野菜を選り分け、店で売る分を手際よく張り出し台の上に並べる。夫は、店の前を掃き清めた後、棒手振り(行商)に出る用意を始めた。
吉之助と竜之進は、それを向かいの空き家から見ていた。
八百屋の夫婦は、どちらも二十代半ば。恰好も身分相応で、ぱっと見、つましく生きる普通の町人夫婦である。しかし、よく見ると違う。女の方が違う。派手さはないが、楚々とした美人である。潤いのある白い肌、茄子や胡瓜を選り分ける白く細い指に目を奪われる。掃き溜めに鶴とは、正にこういうことであろう。
名も、つる、という。
しばらくすると、彼女が、素朴な波佐見焼の小皿に握り飯を四つ載せて持ってきた。大根の葉を塩漬けにして刻み、前夜の残り飯に混ぜて握っただけのものだが、これがひどく美味い。竜之進など、今やこれを楽しみにここにいると言っていい。
「狩野様、島田様、お早うございます。これ、毎日同じで済みませんけど、朝餉にどうぞ」
「かたじけない」
「あの、今更でございますが、本当に来るのでしょうか」
「恐らくな。おつる殿、油断しないことだ」
話は四日前に戻る。
主君・松平綱豊が将軍綱吉に代わって鶴御成を実施すると決まり、甲府藩では、すでに用人・間部詮房を中心に準備に取り掛かっている。鷹狩を行う狩場の下調べ、儀式・行事の研究、参加を呼び掛ける大名や旗本の選定など、大変な作業量である。
吉之助と竜之進も、当然、間部の手足となって日々働いていた。そして、九月に入ってすぐのある日、間部から、唐突に外での食事に誘われたのである。御前様の前でしどろもどろになっている彼を見て、この完璧居士にも弱点があるのか、と若干ではあるが、親しみを増していたところなので、喜んで誘いを受けた。
場所は築地本願寺門前、精進料理で有名な高級料亭。
二人が店に着くと、すでに間部は来ていた。三人での会食となれば、当然、間部が上座を占める。しかし、間部は下座にいた。上座には、見たことのない武家の婦人がお付きの女中を従えて座っている。主従ともぴんと背筋が伸び、行儀作法のお手本のような座り方である。
吉之助と竜之進は顔を見合わせた。甘かった。しかし、今更引き返すわけにもいかない。
「狩野殿、島田殿、こちらに」と、間部が自分の横を指した。
「はっ」
「こちらは、奈良奉行を務める大久保若狭守様の奥様・澄江様です」
吉之助と竜之進は一度姿勢を正した後、深々と頭を下げた。すると、お付きの女中が奥様・澄江の耳元で、何かぼそぼそと言い始めた。澄江は、先程から目を閉じたままでいる。
「御免なさいね。わたくし、三年ほど前から、目を悪くしておりまして。最初は、それ程でもなかったのですが、今ではほとんど何も・・・」
「妻から聞いております。しかし、そこまでお悪くなっていようとは。色々とご不自由でしょう」
「はい。それで、此度のことも、家の恥と知りながら、あなた様のお手を借りねばなりません」
澄江は極めて聡明な女性のようだ。よどみなく整然と状況を説明してくれた。
曰く、高級旗本・大久保家には、一馬という嫡男がいる。歳は二十。文武両道に優れ、将来を嘱望されてきた。ところが、一年ほど前から、友人と悪所通いをするようになった。当初、若者にはよくあることと大目に見たのが悪かった。彼は、一人の遊女に夢中になってしまったのだ。女の名は、舞鶴。色の白い楚々とした美人であった。
一馬は、いずれ三千石を継ぐ身だ。遊女と一緒になれるわけがない。しかし、女中でも妾でも何でもいい、とにかく、その女を身近に置きたいと思い込み、妓楼の主に身請け話を持ち込んだ。
舞鶴は、母親の薬代のため、三年の約束で妓楼に入っていた。ただ、遊女の年季などあってないようなもの。借金の元本に食事代、衣装代、交際費などが日々加算され、年季はどんどん延長される。その内に悪い病気をもらい、妓楼から出られないまま短い一生を終えるというケースが多い。
そんな中、舞鶴の妓楼の主は、店の経営方針として、遊女たちを約束通りの年限で解放すると決めていた。先が見えた方が女たちはよく働く。さらに、店の雰囲気が明るくなって客も喜ぶ、という打算の上ではあるが、比較的善良な男と言える。
そして、楼主は、舞鶴に将来を誓った幼馴染がいると知っていたから、一馬の申し出も断った。この時、一馬は、ごねるでもなく静かに引き下がったという。そして、何もなかったように店に通い続けた。普通に客として来る分には拒むことは出来ない。
しかし、半年ほど前から、駆け落ちだの心中だの、不穏なことを口にし出した。舞鶴からそのことを聞いた楼主は、すでに借金分は十分稼いでもらっていたことから、彼女の年季を前倒しで終わらせ、家に帰したのだった。
舞鶴は化粧を落とし、ただの、つる、に戻った。彼女は、外見は楚々とした可憐な娘だが、実にたくましく、且つ、賢かった。
家に戻ると、あっと言う間に、幼馴染の新吉と所帯を持ち、裏店に小さな八百屋を開いた。祝言の段取り、新居ともなる店舗の手配、品物の仕入れ先から営業方法まで、新吉ともどもずっと考えてきたのだろう。金で買われて男に抱かれている間も、頭の中でシミュレーションを繰り返していたに違いない。
楼主は一馬に舞鶴の行方を教えなかったが、はした金で口を滑らす者はどこにでもいる。一馬は、自分を袖にした上、彼から見れば人の範疇にも入らない貧乏町人と一緒になった彼女に激怒した。それだけでは収まらず、金で浪人を雇い、夫婦の殺害を依頼した、というのだ。
「奥様、そのことはどこから?」と、間部がいつもの無表情で尋ねる。
「はい。最初に一馬を悪所に誘った友人が、さすがに、人殺しの計画にまで話が及んだことに恐れをなし、そっと知らせてきました」
「なるほど。一馬殿とはお話になったのですか」
「はい。されど、あの子はもはや正気を失っております。座敷牢にでも閉じ込めてしまいたいのですが、一馬は腕が立ちます。ご承知の通り、主人は奈良に赴任中で、主だった家臣も主人に従ってあちらに。今、屋敷にいる者たちだけでは、あの子を取り押さえることが出来ないのです」
「元遊女の、ましてや、町人の女房など・・・」とまで言って、澄江は一旦口を閉じた。一瞬、見えていない目がかっと開かれた。漆黒の瞳にぞっとするほどの悪意を宿しているように見えたが、本当に一瞬で、気のせいだったかもしれない。彼女は呼吸を整え、後を続ける。
「身分を問わず、江戸に暮らす民は全て将軍家の民。罪人でもない者を、自分勝手に殺害するなど、許されることではありません。ですから、その八百屋の妻女を襲撃者の手から守って欲しいのです。数日でよいのです。数日すれば、主人が一時帰宅する予定です。主人に一度しっかり叱ってもらい、それでも改心せぬなら、廃嫡の上、座敷牢に入れてしまうつもりでおります」
「なるほど、ご立派なお考え。それで、一馬殿が雇ったという浪人者について、何か情報はございますか」と間部。
「人数は一人とのことです。それ以外は何も」
「そうですか。では、一馬殿は、今、どちらに?」
「屋敷におります。何かと用事など申し付け、出来るだけ屋敷から出さないように気を配っております」
「承知しました。狩野殿、島田殿、頼めますか」
断れるわけもなく、その八百屋夫婦の身辺警護の任について四日目の朝、なのである。
「美味いなぁ。この握り飯は本当に美味い。これ、売ればいいのに」
「馬鹿なことを。ほら、新吉が出るぞ」
「了解。じゃ、行ってきます」
昼間、吉之助は店にいるおつるを見守り、竜之進は、棒手振りで町を回る夫の新吉に付いて歩く。夜は順番に仮眠を取りながら店を見張るという態勢だ。
その深夜、満月からわずかに欠けた十六夜の月が、一人の侍の影を通りに映し出す。影は八百屋の前で止まると、左右を確認した後、障子戸にそっと手を掛けた。
次章に続く
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